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2010年10月

2010年10月31日 (日)

とりあえず10/10/31:α55パノラマ

救急搬送騒ぎで混乱している当ブログですが、とりあえずの手当です。
入院中の余暇?に撮った,Sonyα55のお遊び機構、パノラマ撮影の見本みたいなもので、烏丸の紫明通角にある社会保険京都病院8階ラウンジから北山方面を見たところです。 真ん中の建物は大谷大学で、右手の通りが烏丸通になります。
地平線を形作る山並みから向こうに降った雨は由良川水系から日本海へ、つまり分水嶺ですが、この前の 山が見える か? 騒ぎのポイントです。
パノラマ撮影は秒10駒連写メカのおまけで、振りながら高速連写をした画像を自動処理して繋いでいるものです。 操作としてはモードセレクターをパノラマにして左から右へ振るだけ。 但し被写体の中に動体があると奇妙な事が起こり得ます。 例えば左から右へ走る車を追い写しに近い形でパノラマ撮影した場合などです。 バックの風景は綺麗に繋がっても前にいる車は切れぎれに幾つも写ったりするでしょうね。   (クリックして下さい)

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台紙だけだった昨日一昨日分を仕上げながら、先に時代祭関係を完結し、そのあと植物園に行くつもりです。

≪    とりあえず:10/10/30

とりあえず:10/11/13    ≫

2010年10月30日 (土)

とりあえず:10/10/30

またやりました。 
二度あることは三度と云いますが、此ばかりはやりたくなかったのですが。
またしてもピ-ポ、ピ-ポに乗せられてしまいました。 前二回は一日の終わり近く,疲れていたとも言えましょうが、今回は近来になく体調も良くて元気良く家を出た直後、バス停で気分が悪くなり、気が付いたら・・・でした。 起こったことは一過性の低血圧によるものですが、其の大元の原因が分かりません。 27日昼過ぎに担ぎ込まれて、今30日14時前、退院してきました。
その間29と30二日分、ゲラ刷り状態のページが自動アップされてしまいました。
また御心配をおかけしたことになったのではないかと、恐縮しておりますとともに、そのままオシマイでなくて済みましたことをご報告いたします。~~いつかはそれが起こることでしょうが・・・・・
前後の事情を申しますと、時代祭を時代区分で四日間アップし、その後<つわものども><女たち1/2><童子たち>と4日分の画像の編集を済ませました。 当初は連続してアップするつもりで、二日分ほどの台紙を用意し、29日、30日自動アップにセットしました。 ところが画像を貼る前に気が変わって、23日に撮った植物園を29日から割り込ます事にしたのです。 此はα55の持つフリ-アングルライブビユーなどの実写テストを兼ねたもので、一部で予告したことでもあったからです。
べつに私のブログ作りの手の内をお見せする必要もない事で、ページの修復、後始末ですが、本来割り込む植物園の方もまだ画像の整理ができて居ない状態なので、一両日は他の手段で過ごし、かつゲラ状態でアップしてしまったページを完成させていくつもりです。

と云う釈明の割り込みページでして、一読の価値もございません。

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お愛想に病室の写真をば・・・・ 6人の総室ですが窓際の一等席でした。(社会保険京都病院)

(しぶといヤッチャナ、担ぎ込まれてもまだカメラかいな)
(そのつもりで家を出て、其のまんま担ぎ込まれたもんでして・・・α55持ってましたんや)

≪    時代祭10:女たち・1

とりあえず10/10/31:α55パノラマ    ≫

時代祭10:女たち・1

時代祭行列は主に武者、武士。 従って女性は別に女性列という形で加わりますが、この編年が極めて便宜的。 とてつもない好い加減さで面食らいます。    何しろ淀君が南北朝の後から出てくるんですから。 

現在編集途中です。 未完成でお見苦しい点はご容赦下さい。→11/18完成しました。

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輿に乗ってお出ましになったのは、公武合体の犠牲者?立て役者? 皇女和宮です。

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江戸時代の女人列。
(実は一番苦手なジャンルでして、間違い多発エリアです)

こちらは歌人蓮月尼の若き日の姿。


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池大雅の奥さんで女流画家の玉瀾さん。 次のお梶さんの孫に当たります。


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京都銀座の豪商中村内蔵助の妻。 衣装比べの席での逸話に依ります。 櫛祭りでも同じ服装で出てきますが、此の地味ななりが此処でのテーマ。 対比して侍女には善美を尽くさせる、おしゃれというものの真骨頂を示しています。

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元禄宝永の頃、祇園で茶店を営んでいたお梶さんは女流歌人として有名。


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時代は変わって華麗な安土桃山時代の、そのまた代表的な人物。
出雲の阿国さんです。
ご本人は清楚で地味な格好をし、後ろに従えたお弟子さんがこれでもかという華麗な服装をしているあたり、おしゃれのセンスに共通するところがありますね。

(上下三枚とも)


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禿の童女二人を従えたこちらは吉野太夫。 二代吉野太夫松田徳子さんだとすれば、常照寺の春の行事でお馴染みです。     吉野太夫花供養列:09

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生涯に三度の落城を味わった悲劇の人、且つ天下を仕切って徳川の代を招いてしまった?問題の女性。
浅井長政の三人の娘の長女、淀君です。
彼女の末の妹が徳川三代将軍家光の母であり、三度の結婚を含む其の波乱の生涯が来年の大河ドラマになるようです。


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新しく加わった室町時代の風流列。 竹のササラを鳴らしながら進む普通の町衆の女房達。 日本の文化文明というものは本来こういったもので、黒紋付き上下姿で「下にぃ、下に」と歩く列に土下座する情景とはちがっている・・のはないかいな?  (なに云いたいんか、ヨーわからんな)

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時代女人列の中に京の女性~都周辺の女性~の風俗列と云うべきものが三つばかり混じります。

此は京都北郊外大原から出て来る柴売りの大原女の姿です。


入院騒ぎで時代祭のページが切れ切れ飛び飛びになってしまいました。 
此の続きの ”女たち・2”は飛び離れて存在します。

≪時代祭10:女たち・2 ≫


≪    時代祭10:つわものども

とりあえず:10/10/30    ≫

2010年10月29日 (金)

時代祭10:つわものども

時代区分順の編成は終えて、キャラクターで参加者を集め直しましょう。 先ずは一番はっきりしている”もののふ””つわもの”から。 一人毛色の違う方が混じっては居ますが。    

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山国勤王隊の指揮官のお二人。

このシャグマは兜なんでしょうね。 肩には錦切れ。

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颯爽としすぎて、一寸イメージが違うみたい。

羽柴筑前守秀吉。


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丹羽長秀。 、柴田勝家と並ぶ織田家長老ですが、家は江戸迄残りました。

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織田軍の軍旗です。

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そしてその信長公。

何時も思うのですが、こちらの兜やなんかも一寸イメージが違うみたい。
普通に立派なだけで個性がない衣装は戦前の感覚じゃないの?


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こんなんやったんとチャウんやろか。 信長はんも。  滝川一益です。

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こんくらいド派手ぎゃぁ~戦国武将だなも。  柴田勝家。

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室町幕府の官領細川家の誰かです。 応仁の乱との関係はどうなんかな。

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錦の御旗と進む楠木の一族。

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日本のアマゾネス。
木曽義仲の愛人、巴御前。

時代祭行列中の一番の華。


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金色の鎧を纏うのは、初代征夷大将軍、坂上田村麻呂。


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そして其の麾下の将軍でしょう。


≪    時代祭10:還幸祭・平安

時代祭10:女たち・1    ≫

2010年10月28日 (木)

時代祭10:還幸祭・平安

平安時代に遡ります。 平安京が本来の都として機能していた初期の期間は長いですから藤原時代延暦時代と二つの行列があり、武官文官の参朝列などよりなって、人数も多いのですが、パレードとしてはどうももう一つパッとしません。 結局数少ない鎧武者が華になります。 

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延暦期の政府軍。 
官軍であり征夷大将軍が指揮をしていますが、後代とは少し意味が違います。 相手は只の賊軍ではなく、辺境のまつろわぬ者達、つまり国家建設の過程での必然的な軍事行動でしょう。
金色の鎧を纏った最初の征夷大将軍坂上田村麻呂は中央政府の官人であり、朝廷に対立する政権の主とは縁がありません。


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旗指物の形も変わり、竿の頭も槍ではなくて鉾です。
此が当初の錦の御旗なのでしょう。


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文官の行列もなにがしか大陸風?な印象です。 先進文明国に見習ったものでしょうが、今だって大して変わらないのかも。

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長い長い前駆のパレードが終わって、実はこれからがお祭りの本体となるのです。

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極楽に舞い飛ぶという迦陵頻伽で、あちこちの神社のお祭りで神幸列の前列によく見かけます。 平安神宮のお祭りですから当然花を添えています。 左右で一対になります。  

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同じく神幸列の華、胡蝶です。 可憐な姿は舞楽の舞台でも見かけます。

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御鳳輦の前駆をする鉾の列。 神さまの親衛隊と云うことでしょう。 付いているのも錦の御旗の原形かな。

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そして神宮へ還御になる帝の御鳳輦が堺町御門から出御です。

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御鳳輦は二座。 先に孝明天皇の御鳳輦です。

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続いて桓武天皇がお帰りです。

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同じ神さまのお乗りものでも、御神輿と御鳳輦では雰囲気が違いますね。 ことに平安神宮の場合は尚更です。

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御鳳輦の後ろに続いている此の傘蓋は神籬 ひもろぎと云って、神様が御座所から乗り物に移られる際などに一時的に入られるご神体隠しです。

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最後の弓箭組が出てきます。 此で最終です。 
二時間半ほど座って主にアップで撮っていた堺町御門前の全景はこのようですが、今は観衆も大分散って少なくなっています。 しかし皆さん良く知ってられますから1時間前に着いた時には、もうベストポジションは取れませんでした。

≪    時代祭10:室町・鎌倉

時代祭10:つわものども   ≫

 


2010年10月27日 (水)

時代祭10:室町・鎌倉

時代祭と云い、京の都千年の歴史を遡る等といいながら、奇妙なことに室町時代という行列がありませんでした。 江戸の閉塞した時代は”いま”の直前の時代ですから、旧城下町が多い県庁を中心とした”地方”では”昔から”のもの、”伝統的”なもの、と云うのは徳川藩幕体制下のものに由来していることが多かろうと思います。 その点京都は更に400年ほど前に権力の中心地ではなくなったものですから、日常の文化文明というのは室町時代に由来しており、此はまた日本国全体の文化文明のベースでもあります。 と、そこら中から石つぶてが飛んでくるか、冷笑されて黙殺されるかしそうなヘ理屈を述べましたが、要するに朝敵足利尊氏が建てた政権の時代だからと云うことで抹殺していた皇国史観が此処へ来てやっと改まったというわけです。     

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さりながら他の行列との調和の問題からか、やっぱり武者行列が先ずやってきます。 人物特定がされていない足利将軍家も居りますし、この写真の方は細川管領家の誰かです。

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此が室町時代列のあるべき姿。 日本国の現在の文明のベースになる諸々、民衆の風流踊りの列です。

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江戸の封建社会での衣食住の標準~今の平均的日本人の常識でもある~から見れば突拍子もない華美なものにも見えますが、やすらい祭りの花傘を見たり、舞楽能狂言の衣装を見たりしていると、此が本来の姿なのではないかと思えてきます。 尤もこれは戦争に負けながら経済大国として復活した日本の話で、また閉塞状態に落ち込んでいる失われた十年以降の話ではないのかも知れませんけど。

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此の風流踊りの一行は演奏もしながら歩きますが、要所でパフォーマンスを見せてくれます。 建礼門の出発地点で一回目のを見ることが出来ますが、その他では何処で何時やるのか知りません。 よく見えるところでじっくりと演技を見せて頂きたいと思っているのですが・・・

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この方が風流踊り一行のコンダクターみたいです。 

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風流傘、花傘。 やすらい祭りの花傘よりも祇園祭の傘鉾スタイルですね。

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最後に一般民衆、町衆の一隊がやってきます。 幾らなんでも此が普段着であったわけではなくて、やはりお祭り用のハレ着なんでしょうが、でも凄い。

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この人達もただ黙って通って行くわけではありません。 手に持っているのはササラ。 擦り合わせて音を出す楽器?の一種です。

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と云うことで室町時代が過ぎて、再び錦の御旗が現れました。
鎌倉幕府を倒して天皇親政の世の復活を志した後醍醐天皇の軍旗です。 
掲げて進軍するのは勿論楠木正成の一族。


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南北朝の短い間の史実は戦争中の時代教育に利用されたわけですが、政治体制としては幕府が入れ替わっただけみたいなところもあります。 でも都が都としての機能を取り戻した文化的な意味はあるのでしょうね。

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次は鎌倉時代。 此の時代を表現するのに時代祭がテーマとしているのは、クーデターを企てて失敗した後鳥羽上皇の騎射競技。 流鏑馬とか笠懸の大会にかこつけて近畿の武士を召集された故事を下敷きにしています。

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時代祭を子細に見ていて面白いのは、武士、武将の衣装、ことに鎧兜や武器の形式などの変遷ですね。 歴史というのは主に権力史ですから、この部分が強調されるのもそう言った意味では妥当であり、仕方がないところがあるでしょう。

≪    時代祭10:織豊

 


2010年10月26日 (火)

時代祭10:織豊

今までは時代行列区分毎に1ページを割いてきましたが、今年は何故か二つずつ集めて区分しました。 ところが好きな時代だけ膨大になってしまい、へこたれています。     

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豊臣と織田を続けて並べます。
同一人物が生き得た時間スパンの中なのですが、桃山時代の主人公は秀頼という構成です。
三歳になった秀頼の初参内という構成で、五奉行になぞらえた諸侯と秀頼が乗る最上級の牛車で構成されていますが、勿論主人公の姿は見えません。
それにしても三つの子供を参内させるとは、やはり親馬鹿でしょうね。


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牛車の前後には五人の騎馬の武将が、一日晴という形式に囚われない装束を着て登場するのですが、どの方が誰に想定されて居るのかは明らかでありません。


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そして堺町御門から牛車が出てきます。 

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秀頼の参朝列は何処の城門から出てきたのでしょう。 伏見城?大阪城?

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牛の童、此の大行列中の花形の一人でしょうね。 

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ビンロウゲカラヒサシクルマ、確かそう言う名の最高ランクの乗り物と聞いていますが、漢字を今捜索中。  (みつけました。 檳榔毛唐庇車 )

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此が丁度時代の変わり目です  (勿論行列の上での)
殿(しんがり)の五奉行の一人の後ろに見える馬印は千成瓢箪のようにみえますが、違うのかも知れません。
戦いに勝つ毎に一つずつ加えたという千成瓢箪の話は江戸時代の創作だそうです。


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で、信長上洛列の先陣は其の羽柴秀吉。
 
(行列の一番前には史実に従って、洛中から出迎えの立入宗継という禁裏御用の商人が居ますが)


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この変わった馬印は織田家長老の一人丹羽長秀のもの。
木下籐吉郎秀吉が出世した折、もう一人の家老柴田勝家との二人の姓から一字宛を分けて貰ったことは良く知られています。
(後ろには鉄砲隊が居ますよ)


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其のご本人です。 織田軍の旗幟が見えますが何故か御門を潜ったままで押し立てていません。 此れ、カッコいいんですがね。

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そして御館様の登場。


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何時も思うのですが、今の日本に一番居て欲しいですね。 この人が。


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滝川一益。 
木下、明智に並ぶ出頭人の一人。 本能寺の時は武田が滅んだ後関東の北条氏と対決するために上州厩橋に出陣中でした。

そして毎度文句を言うのですが明智光秀が此処に登場しないのです。 
上京の大義名分とした、暗殺された前将軍の弟、足利義昭を信長のところに連れてきたのは、細川藤高と彼の筈なのに。


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続いてもう一人の長老。 柴田勝家。

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滝川一益の兜も凄いですが、この人のも凄いですね。
去年来ていた観衆の言葉を思い出して笑いがこみ上げてきます。 
曰く 「太陽光発電」

でも秀吉と信長の兜が詰まらないのに比べて、如何にも戦国武将らしくていいですね。 少なくとも信長はもっと変わったのが好きだったんでは?


≪    時代祭10:維新・江戸

時代祭10:室町・鎌倉    ≫

2010年10月25日 (月)

時代祭10:維新・江戸

 

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今年も時代祭の季節になりました。
京都三大祭は春夏秋と手分けして?やっていますが、其の最終。 ご存じの通り平安神宮のお祭で、朝神宮を出発された御祭神桓武、孝明両帝の鳳輦二座は宮居である京都御所迄おいでになり、建礼門前に安在されます。
正午維新勤王鼓笛隊を先頭にした時代行列が御先導の形で出発し、還幸祭のお供をして岡崎の平安神宮へと向かいます。
京都1200年の歴史を遡る大行列は総勢2000人、3時間半に渉って都大路を進みます。

今年は御苑内から市内への出口である堺町御門の外で11時頃から待機しました。 行列の順序に従って一通りを何回かに分けてアップし、その後も幾つかの話題を拾う予定で居ます。 


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先ずは恒例のお嬢さん方。 今年のプラカードは大した内容がないようでしたが、何しろ華やかなオープニングで良いものです。 此の後洋式馬車に乗って烏帽子直垂の知事さん市長さんが登場します。 勿論きちんと撮って二駒ばかりとてもいいショットがありますが割愛。

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これからが本番です。
先ずは何を置いても錦の御旗。

大名の手勢ではなく、天皇の軍隊の旗印、そして近代国家、帝国へと変遷していく日本國の象徴でしょうね。


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山国勤王隊の鼓笛隊。

何しろ勇壮で華麗。 1200年の歴史を遡る大ページェントの出だしを飾るに相応しいものです。
此は錦の御旗が立った後、江戸へ攻め下る官軍に投じた民兵、義勇軍の物語です。


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幾ら都に近いとは言え、丹波の山奥の人達がこれだけの装備編成を整えて官軍に投じてくる。 江戸末期の諸制度の多くは疲弊していたとしても、日本の一般民衆の底力というものはその後の発展のベースとしてちゃんと存在していたのでしょうね。

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シャグマの被りものは赤白黒と三色あり、指揮官の階級を示している見たいです。

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その後は志士列。 七卿落ちなどすこし細かいところがありますが、NHKのお陰で今年は理解出来る人が多いのかも。 そして志士列の中には解説なしでそれと判る人が居ます。 足元を見て下さい。

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毎年写すのですが、此の長大なシッポ。  勤王の関白近衛忠ヒロ(出ない字です)さんですが、長さは官位の高さに比例して居るみたいですね。 因みに此のものの名称は裾、スソではなくキョと読みます。  (地面に擦ってるよ~)

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江戸時代に入ります。
将軍の名代で上京してくる大名の行列と言うことです。
此は供先の毛槍持ち、やっこさんです。


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当時の大名は駕籠に乗っていたようですが、此処では馬上です。

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時代祭の出だしは音曲入りで、次に来る江戸では奴さんの毛槍投げなど、アクションがあって賑やかです。

ただし豊臣の豪華さ、信長麾下の安土の将星の登場などの後、時代が遡るに連れて少し寂しくなったのですが、室町時代が出来てまた賑やかさを取り戻しました。


≪    上賀茂神社境内:笠懸の日

時代祭10:織豊    ≫

2010年10月24日 (日)

上賀茂神社境内:笠懸の日

笠懸の日に写した上賀茂神社境内の諸々、日常です。 特に変わったことはありません。
カメラはα55で、それを普通に使っています。
実は時代祭に行って来ました。 なんとか今日に間に合わせようと思いましたが整理が付きません。 急遽リリーフです。  (この頃のリリーフはアテにならんで)

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何かあるとき、神山号が神馬舎にご出張になります。 日常はお隣の京都産大馬術部に所属するらしいのですが、今回聞いたところではかつてはサラブレッドとしての本業、つまり競馬馬として活躍していたのだそうです。 今言った競馬はケイバで、クラベウマではありません。 もっとも競馬の馬たちも元は競馬に出ていたのが多いそうですが。

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特に解説することなし。 因みに式年遷宮は平成27年で、今各社殿の屋根の葺き替えが順次行われています。

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何時もの写真ながら、上賀茂を象徴する立砂。
後ろに見える工事シートは土舎の屋根葺き替え中です。


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ならの小川に掛かる橋殿東側、祝橋(ほうりばし、祝は神職さんの階級の一つ)の西日。
此処にも工事用の仮設電線がチョロッと顔を出しました。


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其のすぐ脇、橋殿の高欄。 橋殿はならの小川に架かった社殿で、通常の神社での拝殿乃至舞殿の役割を果たします。

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其の正面、山裾の一郭に岩の露出があり、岩上といいます。 葵祭の際、陛下の願文に対する神のお応えがこの上に蹲踞した宮司によって勅使に伝えられます。

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其の脇の紅葉。 例年早々と赤くなる木です。 前に居られる外人観光客、身なりから見て回教徒の方のようでした?

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巖上の裏手の一郭。 聖地です。

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その先、御本殿に至る御物忌川(おものいがわ)の橋の前に、第一摂社片岡社があります。 御祭神の母神玉依姫命(下鴨の御祭神)をお祀りしていて、本社参拝の前に此処に詣でるのが、ここでの正式の作法です。

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御本殿の前の白砂ですが、今朝からの大勢の参拝者の足跡が西日に照らされていました。

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と云うことで、やっと御本殿前の神門です。 前に架かる朱の玉橋は正式な祭儀の時にしか渡れません。

≪    α55:乱写乱撃

時代祭10:維新・江戸    ≫



2010年10月23日 (土)

α55:乱写乱撃

10月17日の日曜日に上賀茂神社で行われた笠懸(騎射競技)の奉納を撮影しに行きました。 
京都のイベント乃至社寺をテーマにした写真日記的ブログを標榜している以上、これが正業なのですが、この日は些か脱線してカメらコレくしょんカテゴリの為に出向いた嫌いもあります。 つまり画作りよりも新機材のテストのほうにシフトしていたからです。
私はそもそものメカ好きで、カメラと名が付けば何でも集める、をモットーにしていましたが、元もとお金がないので原資0でやってきたのが、年金生活になってからは輪を掛けてきて、必要な新鋭機を入手するためには中で稍”ゼニになる”機械が犠牲になって、現在の主力艦α900とツアイスレンズを調達するためにまともなカメラと残り少ない預金が全部流出してしまった、と云うのが正直な現状です。 
まあ、そんな現実の中で借金をしてでも手に入れたい機材が現れたのです。 
そんなに素晴らしく一世を画するようなカメラが何時何処から出たのか? と、御尋ねになるでしょうが、返答を聞かれたら皆さん呆れた顔をなさって、コイツとうとうに頭までイカレタか、とお思いになると思います。  答は既にタイトルに出していますが、α~sony、ミノルタの、位置づけから言えば ”初めてカメラ”、大衆機のα55です。
それの何処が? と、気を取り直して読み続けて下さる貴方、 此のブログの9/6~7にアップしました≪写真機史~大層な大論文:NEX&α55≫≪〃:ピントグラス≫ をお読みいただいたでしょうか。 
つまり写真の原初からある最も基本的な映像確認手段である ピントグラスよ、さようなら、 ついでに可動ミラーともバイバイで、真面目に写真を撮るための機材としての完成型=一眼レフの形をしたレンズ交換カメラに、ほぼ実用域に達したライブビユー(→過去のカメラにはない新しい画像検出&決定機構 )を加えた、此からの時代の作画用乃至報道用のカメラの原形と思えるものであるからです。
実際に使用した感想は未だオモチャ。 肝心要のビューファインダーにある未完成な混乱を引きずった、問題点も一杯在るものでしたが、オスカー・バルナックがライカを創ったのには及ばずとも、旭光学がペンタックスKを完成させた時と同じくらいに画期的な、未来指向のプロトタイプである事は確かなように思えます。

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176番 「新」 「実用」  Sony α55  SLT-A55V 0012868 Made in Thailand   

1620万画素  CサイズCMOS  4912*3264pix   iso 100~12800
ファインダー  0.46型電子式 1440000ドット  視野率100%  倍率1.1倍(50mm)
背面モニター  3.0型ワイドTFT 291600ドット  視野率100%  フリーアングル
シャター速度 1/4000~30sec B  フラッシュ1/160   内蔵フラッシュGN10
手ぶれ補正 イメージセンサーシフト  シャッター速度で4段程度補正
動画  Archd 1920*1080 70分 / MP4

標準付属レンズ  DT3.5-5.6/18-55 SAM(モーター付)  

このカメらコレくション記事の例に倣って一応のスペックを並べました。 考えたらデジでは此のブログを始めた頃の05年3月、此のページの写真を撮る機材として、ディマージュXG(目下の働き者) やクールピックス990(デジタルの主力艦(ちょっと弱い!?>)が登場して以来です。
五年間でカメラも私も進歩?変遷したものですが、此処に並べた仕様をざっと見ただけで、「えっ!何?これ!」と仰るところがあるはずです。 多くの項目でハイエンド機(キャノン、ニコンの一桁機)にしかない数字が並んで居ます。 だいたいSonyミノルタになってからは、ツールとしては最高に完成しているのに商品としてスペック上に花、売り、が無いものが続いていたのに此処へ来て売り文句に関しては全く様変わりです。 此のタイで製造の初等機が簡単に此処に到達しているのは、ピントグラスを止め可動ミラーを止めたと云う新設計に尽きるでしょう。 ピントグラスを止めて全部電子的映像で処理すると言うことはデジタルの時代ならではの未来指向、展望と言えるでしょう。 ただし私のような古典的メカ人間にとっては、実は嬉しくない傾向でもありはするですが。
ところで実機の試用記的な部分に参りましょう。 
(動画に関して現時点では其の機能の存在を無視した状態で話を進めます)
先ずものすごく小さく軽く、秒10駒での20連写でも作動音は極めて小さく、握った手には何の反応も返ってきません。 従って高級感は無くて玩具的にも感じます。 (そのくせ絞込ボタンが伝統的な定位置にちゃんと着いていて操作感グー) 各種操作は従来のミノルタ系の変化したものですが、考え方はまったく変わっていて一操作点に一操作を割り当てるのを理想とするのの対称の携帯電話的なやり方。 私の嫌いな一つの操作点に幾つかの機能を持たせてそれ等の選択を組み合わせて決定するスタイルに近く、同じ設定を出すのにアプローチの仕方が複数在って混乱しますが、カメラは電話ほど雑多な機能を持たない(GPSと世界時計は抱いて居ます~時刻設定全自動で○)ので少し馴れれば此も悪くはないでしょう。 
100%視野で等倍像(於50mmレンズ)の電子ファインダーは水準器やグリッドなども表示でき、一方では画像だけにする等の映像の見え方の選択や拡大も1アクションで出来、もちろんパララックスはありませんから、機能的には抜群で理想のファインダーと言えるでしょう。 ただしピントグラスに比べての視覚的違和感は相当に感じますす。 明るさの調節などもオート&手動で可能ですから、その辺りに馴れればまた違うのかも知れません(オートでは明るすぎました~世界最高のファインダーと云われるα900ユーザーの発言です) 当然ながらメインスイッチが入って居なければ何も見えませんし、目下の処動作的にも不安定な所があります。 
一方背面液晶によるライブビユーですが、此はミノルタの昔から搭載しているアイセンサーによって、目がアイピースを覗くか離れるかで自動的に切り替わります(手動も可)。 サイズや明るさも今までで最高でしょうし、表示の種類、切り替え操作、調節等は直視の場合と同じで、勿論常時AFが動作。(此の点他社機は疎い)そして完全なフリーアングルで縦位置でのアップやロウビユーも自在。 仕舞うときには画面を内側にしておくことも可能です。
 (そんなん、ビデオやったらアタリマエちゃうの?) (そやねん、いままでチゴタンはSonyαの七不思議やな)
さて最大のウリの秒10駒ですが、此は全くストレスなしに走ります。 ミラーが動かずシャッター音だけですから、強力な手ブレ防止内蔵とフリーアングルライブビユー、軽量小型と相まって片手で人の股ぐらから連写(上賀茂神社笠懸10:騎射)なんてことも全く簡単に出来、横にいたEOS1ユーザーに厭な顔をされました。 ただし何度も言いますが、まるきりオモチャ的で、α700の連写のような妙なる響きとは全く縁がありません。 秒10駒で19~20連写の連続も可能で、結局上賀茂笠懸では505枚撮りました。 16GメモリースティックHG、RAW+jpgサイズL(16M)4912*3264 で残りは100枚、但しバッテリーの方が544枚で死にましたが。
結論としてスタートラインに着いたばかりの新機構です。 でも此の線を洗練させハイスペックにしていったら全く新しい世界が開けるでしょうね。 今現在N、Cに比べて劣っているのはAFセンサーの数、より充実して欲しいのはISO感度の実用上限アップ(現在最大12800)位で、カタログスペック的には抜群、且つ概ね其の通りに動きますからコストパフォーマンスも抜群。 後は使用感とその辺りにある違和感の克服、操作性の洗練と云ったソフトな面がより改善され、更に新機能と其の組み合わせに起こりがちな電子的不安定さ、(不定愁訴)が克服されれば申し分がないと思います。 そして最終目標は、光画作品制作用としても完成されたフルサイズのα9D、として貰いたいものです。

私が敵の罠に填ったのは、先ず「秒10駒」ですが、 此れに依る乱写乱撃には充分満足しています。 (もし本機をオモチャとして楽しみたい向きには、此の機能に付随した自動パノラマ撮影なんてのもありますし、スマイル検出などお任せ撮影機能は満載です。)
もう一つ填ったのが「完全フリーアングルAFライブビユー」で、 実は350のAFライブビユー(チルトは上下にしか出来ません)で、スミレのような地面にくっついた極めて小さい花を地べた目線のマクロで撮る、と云うような今まで不可能に近かった映像の楽しみ方を覚えたからです。
今度は縦位置でも撮れますから、近日中に植物園でやってみるつもりです。 
結果はまた此のグログ上でご覧に入れることになりましょう。

≪        上賀茂神社笠懸10:連写

上賀茂神社境内:笠懸の日    ≫

2010年10月22日 (金)

上賀茂神社笠懸10:連写

昨日は究極の連写中の此の一枚を押さえたところを主に載せましたが、今日は連続シーンを出来るだけそのまま掲載します。 ただ全駒を正直に載せるとブログがパンクしそうなので、その辺は適宜短くしたりしています。      
この日は連写テストとは言いながら、最前列に座り損ねたのでカメラを左右に振ることが出来ず、走る馬を追い写ししながらのテストは出来ませんでした。 つまり動体をどれだけフオロー(ピントも含めて)出来るかのテストはなく、固定したカメラの前を走り抜ける動体を連写したに留まります。 其の結果全部の駒が最初に合わせた弓の的にピントが行っていて、前を走る馬はアウトフォーカス気味且つ少し流れています。 なお使用レンズは全てDTゾナー16~80/3.5~4.5ですが、此のレンズは内蔵モーターを持っていませんから、此の用途については本来の付属のDT18~55/3.5~5.6より劣っている可能性はあります。

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一の的 10枚連写の3駒目から9駒目まで連続して載せています。 3/10

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4/10

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5/10

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6/10   矢の動きもさることながら、馬の足裁きのいいところを押さえようと思うと、此の程度の連写性能が必須ですね。

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7/10

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8/10

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9駒目/10連写

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二の的。 7駒目/11連写中

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8/11

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9/11

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四の的。 7駒目/18連写

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8/18

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9/18

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10/18

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五の的。 2駒目/7連写

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3/7

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4駒目/7連写

α55の撮影モード:  RAW+Jpeg サイズL(16M)4912*3264    メモリースティックPRO-HD16メガ (662枚撮影可能) 、最大20連写(まだいけるようです)で32カット+通常画面 約500枚撮影  バッテリーは100%が5%に

 

その他の感想など、カメらコレくしょんカテゴリー”α55 乱写乱撃”で駄べります。

≪    上賀茂神社笠懸10:騎射

α55:乱写乱撃    ≫


2010年10月21日 (木)

上賀茂神社笠懸10:騎射

実はこの日新兵器のα55を使用しました。 機材の内容と感想は別項にて詳細に書くつもりですが、秒10駒という連写がウリです。 Sonyの術中に填って其のテストが主になってしまいました。 今日は笠懸の五つの的の内、四つに関する”的中”の瞬間ばかりのピックアップです。 ただし三の的だけは場所取りの関係から写しておりません。
(此のページについては、写真クリックでサイズアップします。 プラウザの”戻る”ボタンで戻って下さい)

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一の的、的中。 
写真は1ショットで最大20枚繋がっていますが、今日はサワリだけをピックアップしました。

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二の的、 二度目のトライで小さな的になっています。 
今度は射手が選抜されているのですが、それでも的中して花吹雪が舞ったのは二人だけでした。 これは12連写中の1駒目。

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12連写中の4駒目。

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12連写中の6駒目。 

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12連写中の7駒目。 矢が的中して的は砕けています。 此の四枚はトリミングしています。

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低い位置の的を射る小笠懸、五の的。 4連写中の2駒目。

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4連写中の3駒目。

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4連写中の4駒目。 矢が当たって的が割れる様をローアングルから捉えました。 この視点も新兵器のフリーアングルライブビユーのお陰です。 (実は二列目に座っていたので、一列目の人の足の下から撮らせて頂きました。)

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一番難しいとされる四の的ですが、私の方は違う場所の最前列に移り、適当な距離もあったので、カメラ側から言うと連写の威力が最大限に発揮された一枚です。 
本来の目的である”此の一瞬”を押さえることが出来ました。

≪    上賀茂神社笠懸10:奉納

上賀茂神社笠懸10:連写    ≫


2010年10月20日 (水)

上賀茂神社笠懸10:奉納

17日の日曜日は各所で色々な祭事催しがありましたが、上賀茂神社では笠懸の神事と奉納が行われました。 
笠懸は流鏑馬、犬追物、(かさがけ、やぶさめ、いぬ追うもの)と並んで騎射の三物と称された武技で、鎧に包まれた敵将の顔面を馬上から狙撃する技を修練する為のものでした。 鎌倉幕府に対するクーデターである失敗した承久の変直前の建保二年(1214)に、近畿の武士たちを集めて後鳥羽上皇がこれを催された故事は、時代祭のテーマにもなっていますが、平成17年に神事として八百年ぶりに復活し、賀茂別雷神に奉納されるものとなった、とされています。

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此の弓馬術は源氏相伝のもので、武田氏、小笠原氏などから細川藤高に受け継がれて今日に至りました。 藤高は信長麾下の戦国武将ですが、元もと室町幕府の臣で、古今伝授も受けた当時最高の文化人の一人でしたから、此の古儀は徳川家には伝えず、肥後の自家内で伝承した、と云うことです。

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馬場は五月の競馬と同じで、南の馬場元から北の馬場末まで218mとされています。 12時半からご本殿内で神事があり、終わって紅白の武田菱の幟をたてた一同が入場してきたところ。 先頭の神職さんが諸処のお祓いをされています。

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諸役の後から騎馬武者が入場。
先ずは蕪矢を番えた奉行が馬上から天地の邪気を払う”天長地久の儀”を行い、其の後矢を後ろ手に握って射手の順番を決める籤の儀式などを行います。


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儀式の間かぶっていた”鬼面”の笠が脱がれて、射手の被りものは烏帽子に変わります。
(今気がついたのですが、画面の女性は前の写真で馬の口取りをされていた方と同じで、被りものは変わっています。それにしても全く同じ姿勢が見事、修練ですね。)

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奉行が中央の櫓に着座。 太鼓を合図に笠懸が始まります。

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馬場元には此の扇の掛が居て、其の上げ下げの合図で騎射の行事が進行します。 
最初は素駆け、次に北へ向かって板の的を射る大笠懸、戻って地表近くに置かれた的を狙う小笠懸が行われます。

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矢来で囲まれた大笠懸の的は一の的から三の的まで、はじめは二尺一寸(63cm)角の板で、次は小さな円形の的になります。 これは的中すると花吹雪が舞いますが、小さいのでなかなかそうは行きません。 復路の小笠懸の的も角板ですが少し小さく、地面近くに立てられた四の的、五の的となります。 進行方向右手にある四の的は逆勝手になるので、最も難しいとされています。 
それらの詳細は明日以降アップさせていただくとして、此の写真は馬場末に近い大笠懸の三の的を狙う女性射手で、中央手前に小笠懸の四の的も見えています。

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肝心の騎射の写真は明日明後日詳細に載せさせて頂きます~実は新兵器(狙撃銃でなくマシンガン)のテストをしていましたので~~終わると奉行櫓正面、桐の大木の下に諸役、射手が再集合します。

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成績の発表です。
最多的中者が表彰されて、奉行がそれを称えています。 鬼面の笠をかぶっていますね。


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全て終わって直会となりました。 女性の射手が二名参加していると言うことです。

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西に傾く日の光をバックに退場する射手達の姿。

≪    本日も休業:粟田神社・神輿(09)

上賀茂神社笠懸10:騎射    ≫


2010年10月19日 (火)

本日も休業:粟田神社・神輿(09)

     

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仏光寺廟で鉾が休んでいる間に青蓮院の前まで先行しました。 此処は大神輿が名物の斜め階段登りをやって青蓮院に参内するものですから、それを見ようと何時も物凄い人出です。

やがて神宮道の坂を登ってやって来る剣鉾が見えはじめました。 大鳥居をバックにして、とてもいい光景なんですが、如何せん例の電柱の林、電線の海。


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青蓮院の名物、大楠の木の下を通って剣鉾は進んできます。
此処でも大木の枝を交わしながら。


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御神輿がやってきました。 こちらの御神輿は京都でも有数の大きさです。

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これが名物の斜め階段登り。 青蓮院宸殿前への正門は普段は開かずですが、今日は特別です。 斜面に斜めに刻んだ石段を登っていくので、御神輿が傾いて横倒れしてきて大変なのです。

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斜め部分を登り終えました。 門の前の平らに差し掛かります。
これで一安心。

上でどう言った行事があるのか窺い知れませんが、御神輿の衆はその間に一息入れます。


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さて青蓮院詣でを終えた御神輿が下ってきます。 再び緊張の刻。

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多分下りのほうが危険度は大きいことでしょう。 御神輿は手前側に大きく傾きます。

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無事下り終えての差し上げは一層熱がこもります。

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御神輿は れいけん祭のあった華頂道の三叉路まで行って、瓜生石の廻りをUターンして戻ってきました。
これから終日氏子町内を廻ります。


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私は華頂道を下って古門前の白川端で剣鉾や御神輿を待ちました。
白川の清流に青柳が映えて普段でも素晴らしいところですから、さぞや良い写真が・・・と言う筈ですが、鉾は電線が邪魔して殆ど立たず、御神輿は柳の枝に隠れて殆ど見えません。


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古門前で橋を渡って北の方へ戻ります。 これからは町中、町屋の中を進んでいく筈ですが、余所者は此の辺りで失礼します。

≪    本日も休業:粟田神社・剣鉾(09)

上賀茂神社笠懸10:奉納    ≫

例の注釈:  此のページは 本日”も”休業 の頁です。 内容は昨年の撮影で、要するにアウトレットのバーゲンセールであることをご承知置き下さい。


2010年10月18日 (月)

本日も休業・粟田神社・剣鉾(09)

二日ばかり本業が割り込んで開店していました!!、が、休業の続きです。 (わりかしシツコイ奴やな)  (いまごろき~ついたか!)
粟田祭は体育の日即ち10月第二月曜に行われます。 ただし正確に言うとこれは神幸祭で、剣鉾などを従えた御神輿が町内を廻り、途次青蓮院などにも入るというもので、例大祭は15日に行われて舞楽などが奉納されます。 正式にはこれまでをお祭りの期間とします。

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其の神幸祭ですが、猿田彦を先頭に大燈呂等、そして剣鉾、御神輿と続きます。 ルートは大まかに言うと白川あたりから裏道を蹴上まで行き、三条通りを神宮道、それから青蓮院、瓜生石で反転して三条から白川沿いに古門、古川町の商店街から東大路を越えて町内を経巡り大将軍神社の辺りから引き返してくると言ったものです。 全部お供は敵いませんので何時も前半だけ。 この日も都ホテルの西寄りの三条通りで待ちました。 写真はこの辺の町内の子供神輿で、出番待ち中です。

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剣鉾というものは神様の武器で、祭礼の列を警護するものですから、京都の神社には大抵あり、氏子町内毎に奉持する~つまり鉾町~ので大きな神社では相当な数の鉾が祭礼列に加わったようです。
”差して歩く”のが本来ですが、次第に巨大化して台車などに乗り、更に華美になって行った極限が祇園祭の山鉾というわけでしょう。
ただ”差して歩く”のは体力と技術が要り、何よりも電線が空を覆うに至って殆どのところが失われるか、あっても居祭りと云う時代になりました。
その中で此処粟田神社の御祭礼では最大級の規模で”鉾差し”を見ることが出きるのです。


 他のお祭りなど当ブログ内の 剣鉾 関係はこちらからどうぞ。

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三条通りで待っていると一筋北の細い通りを東へ向かって行く行列が見えました。 蹴上交差点手前で三条へ出て西へ向かうはずです。

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やってきました。
狭い通りでは倒して運び、要所で建てます。 三条へ出てきてこれから最初の見せ場です。


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三条通には電線がないので鉾差しには絶好の環境です。 

鉾の先端は極く薄くてしなやかな金属で出来ていて、進むに連れて撓って揺れて日の光を反射し、つけた鈴がチンチンと鳴ります。


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数も多いので京都中の”鉾差し”経験者が大集合される感じです。


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建てて歩く修練もさることながら大変な労力です。 差し手は随時交替します。


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鉾を立てたり横倒しにしたりするのも技術を要します。


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手に持っているY字形の棒は”鬼”と云って倒すときに支える補助具です。

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仏光寺廟のところまで進んできて休憩です。 鉾を倒して運びます。


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鉾の先が地面に着かないように養生をして横倒しにします。


今年(2010)は数十年ぶりに琴高鉾と云うのが参加したそうですし、天気も良かったことですから、此の三条通での鉾差しはさぞ壮観だったことでしょう。 残念です。


例の注釈:  此のページは 本日”も”休業 の頁です。 内容は昨年の撮影で、要するにアウトレットのバーゲンセールであることをご承知置き下さい。

≪    岬神社(土佐稲荷)

本日も休業:粟田神社・神輿(09)    ≫

2010年10月17日 (日)

岬神社(土佐稲荷)

昨日の元立誠小学校の内外をご紹介するページは、去年作ってお蔵にしていたのですが、 岬神社のお陰で息を吹き返したわけです。   元もとはどちらも土佐藩京屋敷のゆかりで、今年は竜馬の当たり年。 何かのご縁かも知れませんが、とにかく繁華街の真ん中にありながら存在も知らなかった岬神社にお参りしてきました。 

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繁華街のど真ん中、には違いありませんが、表通りを一歩裏に入ったごみごみしたところ、早い話が水気の御商売の密集地です。
私が通じていなかったことは、別に・・・・というわけで、意外と知らない小路、と云うより露路があります。
今回岬神社に向かうにあたり、意識して立誠小学校周囲のそうしたところを通ってきました。 写真に撮るようなものは少ないですが、此は立誠小の南側にあって屈曲して小学校にぶつかる狭い道からの光景になります。
角ッこにはきちんとした土蔵があって、そのものの感じは良いのですが周囲との調和は?です。
(土蔵の主は たん熊さん?)


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前の写真の露路を突き当たった東西の通りです。 (ここら辺の沢山の小路にも名はあるのでしょうが、よく判りません) 左は元立誠小のグランドで、新しく出来た鉄柵には”高倉小学校第二教育施設”とありました。 何らかの活用が始まったのでしょう。

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水気が多いところですが、此の辺りは由緒のお店が並びます。 さっきの写真にはたん熊北店、此には瓢正と、老舗の看板が写り込みましたが、その道を高瀬川~木屋町筋に向かいます。

今なんとなく木屋町筋と書きました。 筋と言う言い方は大阪風でしょうが、この場合だけなんかしっくりしたような感じがするのですが。 
(アンタだけちゃう?)(そ~かも)


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で、その木屋町(筋)ですが、先生に引率された小学生の一団が現れて、校庭脇の鉄柵から高瀬川に向かって開いた小橋を渡って入っていきました。 柵には鍵が掛かっていましたが、何らかの利用をされて居るみたいです。
もうひとつ、写真左下に”八之舟入”跡と云う新しい石標が出来ていました。 そう言った船着き場があったのですね。

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そのまま北へ上がって校舎の北の道を河原町方へ向かいます。

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その道を半ば程行った辺りの北側にありました。 こじんまりしたお宮さんです。 お隣は”ギョーザの王将”

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ちゃんと今年ならではのご案内が張り出されて、反対側にはいまさら急造したのではないでしょう小像が立っています。

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脇の社務所の鴨居にも、ちゃんと竜馬はんは居やはります。

この岬神社御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと=お稲荷さん)と石栄神で、室町時代中期に鴨の中州に建てられ、江戸初期にはこのあたりに出来た土佐藩邸に取り込まれたが、産土神として一般人も自由に参拝できるようにされていた。
と云う御由緒を持っています。


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お参りをして退去するとき、振り返った光景はこちら。 此処でも丁度真正面に、南北の通路のような家の隙間の露路が見うけられます。

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その露路に入ってみました。 やたらに”私道につきバイク駐車禁止”の札があると思ったら、ほんとに私道も私道、きちんとしたお宅、住宅の庭先みたいな通路でした。 
水気の御商売のそのまたど真ん中に意外にもあった邸宅の一並び、と言った感じで、これはこれで相当な御由緒がお有りの一郭なんでしょう。
(但し現行建築法規では道路に接して居ていない敷地扱いでしょうから、これからが大変でしょう)


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L字形の露路から河原町に抜けました。 すぐそこは蛸薬師の新京極側への交差点。 今回の土佐稲荷探訪を終えて帰ります。

≪    京都市・元・立誠小学校校舎

本日も休業:粟田神社・剣鉾(09)    ≫

 



2010年10月16日 (土)

京都市・元・立誠小学校校舎

此は大分古い写真です。~~昔の写真という意味ではありません。  今日のアップに対して撮影が09年9月18日と言う意味で古いのですが、しかし大分古い写真~~昔の写真でもあります。
(なにゆ~とるんか、ヨーわからん)

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この日所要があって四条河原町から三条へ向かいました。 なんとなく木屋町を歩いたのですが、全くなんとなくで普段あまり通らないルートを歩いてみただけです。
そして此処を発見しました。 発見などと言うものではなく昔から此処にあり、いまこうなっていることも知っては居たのですが、あらためて発見したようなものでした。
元京都市立立誠小学校。
市中心部の夜間人口減少=住居の周辺部移転で少子化、と言うことで統廃合された、伝統ある小学校の一つです。
こうした学校の再活用も進んでいて、京都国際マンガミュージアム (龍池校)京都市学校歴史博物館 (開智校)などがその例ですが、こちらの場合は未だきちんとした方向が定まっていないみたいです。
ただ今回高瀬川に沿った美しい此の元小学校の前を通ったところ、”対話の輪”という看板が出ていて、何かイベントをやっていました。 誰でも入れるらしので入らせて貰って古き良き小学校の雰囲気を味わってきました。
と、言うことなんですが・・・・
今日はそう言った趣での写真を、明日は此のイベントを軸とした写真をアップいたします。

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・・・・・此のページが此処に出現するには、少々ヤヤコシイ経緯が重なります。 と云ってもヤヤコシイ話ではありません。 (ヤヤコシイいいまわしやな)
実は最近ZUZUさんのブログで岬神社なるものの紹介がありました。 私は全く聞いたことが無く、見ると土佐稲荷、元土佐藩邸の鎮守社。 が、維新後に今の場所に出られた。 それは何処なのか? なんと街のどまんなか。 この元立誠小学校北側の通りの河原町と木屋町との中間の北側。 京都で一番の繁華街(水気の多い多少ヤヤコシイ)のド真ん中なのでした。
ビックリして早速そこへ探訪に出向きました。 四条から三条までなら今でもなんとか歩けるからです。 と云うことでその分一回分のネタが出来ました。 本当は今日は本日も休業で粟田神社の剣鉾が出るはずだったのですが、お陰でそっちの整理は出来ませんでした。 と云って新規の岬神社は尚のこと準備が整いません。 処がところが幸いなことに、そこへ去年の此のネタ、殆ど出来ていたのにアップのチャンスを失って寝ていた子が起きてくれた、と云うわけです。 捨てる神あれば拾う神ありで、古いページが巧く填ってくれました。

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そうなんです。
 
この立誠小学校、実は土佐藩邸の跡地なんです。 維新史上の一つの大きなポイントですから、去年撮影時でも此の高札には観光客が寄ってきていました。
竜馬伝の今年のことですから尚更で、言うなれば一つの巡礼ポイント?。


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岬神社の話は明日10/10/17のアップとして、09/09/18校内に入りました。 廃校後の利用法が決まっていません(今年は一寸趣が違うようですが・・後述)から普段は立ち入りが出来ません。 
此は一種貴重なチャンス、貴重な映像といえるでしょう。


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この時のイベントで廊下にも色々展示がありましたが、それはさておき 天井の乱雑な電気の配管を含め、暖かくて懐かしく、人恋しいような雰囲気があふれてはいませんか?


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その感情の極みは壁に貼られたこのような写真でしょう。

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階段。 手摺り。 みな情感が籠もっています。  手摺りの上の木のブロックは、滑り台としての活用禁止策?

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日常的ではないようですが、校庭にネットがあり人影もありました。


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上の階の廊下です。 
やっぱこういった環境で育てなくちゃ、良き日本人、良き京都人、良き市民、良きホモサピエンス、 まぁなんでもいいですが、エエやつは育ちまへんで。


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教室。 角ッこの高瀬川沿い。 窓の外は繁華街の雑居ビルですが、その向こうには東山の秀麗な姿がありました。

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一番上の階にあった広間です。 畳敷き。 講堂のようなものか、お作法室か? 何れにしても今の教育環境には無さそうなリッチさですね。

≪    本日も休業:粟田神社・れいけん祭(09)

≪岬神社(土佐稲荷)    ≫

去年九割方出来ていてお蔵にしていたページをそのまま利用しましたので、あちこちややこしくなっています。 そこへ新品の岬神社をくっつけ、またその次は”本日も休業”して09年粟田神社のお祭りとヤヤコシクアップすることになりそうです。


2010年10月15日 (金)

本日も休業:粟田神社・れいけん祭(09)

09年版粟田祭による本日も休業のページ三番目は、体育の日前日の日曜日夜7時に行われる夜渡り神事れいけん祭です。 
此は知恩院山門前の路上に埋まった霊石瓜生石を前にして行われる神事・・にして仏事、で、現代では珍しい神仏混合行事と言えるでしょう。
粟田神社氏子中の行列を従えて、神職さんの振る大麻を先頭に神官僧職一統が石の周りを三回廻ると云う行事を中核に神社からの行列が続きます。

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数年前から加わった呼び物の大燈呂。 かつて行われていたものの再現らしいですが、京都造形芸大の人達の労作で、神賑わいの夜から神輿の行列までお供をして粟田口から岡崎一帯を練ります。

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神宮道と華頂通りの三叉路交差点中央に埋まった瓜生石の廻りが今宵の主な祭場です。
定刻前知恩院の北側にある黒門の扉が八文字に開き、瓜生石に向かう正面の大階段を正装の僧職ご一統が下ってこられます。

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瓜生石を前にして神式の祭壇が設けられており、周囲に二つの特別な剣鉾が置かれます。 その前に神職方と僧職方が対面して座られて、先ずは神式の修祓献餞があり、次に読経が始まります。

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神式、仏式それぞれの儀式が終わると、大麻を翳した神職を先頭に、神職僧職更に氏子衆が続いて環になり、瓜生石を中心にしてその周囲を三度廻ります。

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この夜、氏子町内のあちこちに此のような灯りが用意されます。 
此は十二燈(じゅうにん)と呼び、剣鉾と同様それぞれ由緒の町内に祀られており、夜渡り神事の照明装置としてお供をします。


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明日の御神輿の代表者たちも参加しています。

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御神輿の衆が捧げているのは、長柄の先に付く取っ手のようですね。 (名称を知りません)

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最終ラウンドです。 列の頭と尻尾が繋がって環になっています。

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終わると再び着座されて、今度は鉾の一基がが引き出されて、再度お祭りが行われます。 此の鉾はとくに御祭神が宿られるものなのでしょう。

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神職さんの祝詞などが終わると、僧職の方々も御榊を手にして奉幣されます。

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このようにして神仏交互にそれぞれのしきたりに従ってお祀りをされ、知恩院の方々が黒門の階段を登ってお帰りになると、行列が再編成されて、町内を経巡ります。

≪        本日も休業:粟田神社・石見神楽(09)

京都市・元・立誠小学校校舎    ≫

 

例の注釈:  此のページは 本日”も”休業 の頁です。 内容は昨年の撮影で、要するにアウトレットのバーゲンセールであることをご承知置き下さい。

去年までの分(Google)です。  ブログ:ノルマ内の粟田神社

2010年10月14日 (木)

本日も休業:粟田神社・石見神楽(09)

粟田神社御祭礼の神賑行事第二幕はオロチ。 恵比須と同じく京都造形芸大の諸君が本場石見で修行をした結果です。 
登場する主人公は当社御祭神である素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、お后となる櫛稲田姫(クシイナダヒメ)、其の父母テナズチ、アシナズチ。 そしてオロチが4匹。 お話の筋をご承知であれば、此のページの画像を含め、説明は不用な最もポピュラーな日本神話でしょう。 但し原作?ではヤマタノオロチは八つの峰と八つの谷に跨る大蛇で、頭が八つ尾が八つある怪物ですが、此処では単独の四匹として登場です。 もちろん一匹一匹に演じ手が入って居て、酒を飲みスサノヲと決闘し退治されますが、その間演者が決して”足を出さない”のも一つの見所です。
  例によって注釈:  此のページは 本日”も”休業 の頁です。 内容は昨年の撮影で、要するにアウトレットのバーゲンセールであることをご承知置き下さい。

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素戔嗚尊登場。

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櫛稲田姫とテナズチ、アシナズチ。 

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尊に命じられて酒を用意します。

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出てきました。 四色四匹の大蛇。 (三匹しか見えませんね、間にアシナヅチの顔が)

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とぐろを巻いて舞台一杯になって荒れ狂うところが見物です。 (二匹ずつ絡み合ってますよ)

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酒樽を見つけて飲み干します。

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酔ったところでスサノオの大蛇退治が始まります。

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オロチの猛反撃。

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怯まずスサノヲは次々に首を挙げ、退治していきます。

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最後の一匹との最終決戦。

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遂にオロチを退治したスサノオは、クシナダヒメと結ばれます。 めでたし、めでたし。

≪    本日も休業:粟田神社神賑の夜(09)

本日も休業:粟田神社・れいけん祭(09)    ≫

 

09年撮影の一連の駒から新たにピックアップして、同じ内容のお話を違う並べ方にしただけのものですが、バーゲンであっても在庫の新品で展示済みではありません。  それにしては巧く纏まって、ひょっとしたら今年の方が出来がいい?  (そんな!アホな!)
 昨年分です→粟田祭神賑行事09:石見神楽・大蛇

2010年10月13日 (水)

本日も休業:粟田神社神賑の夜(09)

昨日からやりだした、本日”も”休業”ですが、何れにしても旧作、在庫品、未使用品を探し出して作る、言うなれば中古市、今風に言えばアウトレット?なんですが、一応季節のモノ?を、と、櫛祭からネタを拾いました。 早々にボロが出たのには参りましたが、ちゃんと見て頂いているファン??の方が居て下さるということで、感謝感激の至りです。
と云うことからでもないですが、アクセス解析を見ていると、此の一両日粟田神社関係がラッシュしています。 検索頁でのキイワードでもそうですし、直接過去の頁においでになる件数も多いのです。 つまりは本年の各行事、昨日私がぼやいた     9日夜の神賑行事=石見神楽、10日夜の大燈呂と れいけん祭、11日の御神輿と剣鉾巡行 の頁に殺到(は、大袈裟、誇張)されています。 もちろん此の律儀な男(タレのこっちゃ?)が今年のお祭りを、せっせと”報道”していよるやろ、とのご期待からでしょう。
其のご期待への裏切りはもう既遂ですから仕方がないとして、ならば粟田祭り関係の去年の残り物でも探して誤魔化すべい、と古いHDを再装填してみたら、あるわ、あるわ、 此は私が乱射乱撃した故ばかりではなく、お祭りそのものが凄く充実している結果でしょう。
と云うことで、本日からのアウトレット市、昨年の在庫大バーゲンは規模的にはレギュラー並になってしまいました。
古物で余りきっちりやると、今年の話と混同されて、自他共に迷惑・・・・と云った恐れがあるのですが、今の状態では仕方がありません。 今朝病院へ行って(私の身体は御主人様同様の臍曲がりで、おかしくなるのは大抵休み・それも連休・の日なんです)半日掛かりで点滴して一寸人心地が付いたので此の作業を敢行しています。
ま、そう言う次第のでっち上げとご承知の上ご覧下さい。 今日の分は去年10月10日夜の神賑行事で、その焼き直し的展開となります。

    去年までの分(Google)です。  ブログ:ノルマ内の粟田神社

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粟田神社御本殿レベルへの坂の途中にこの小神輿が座っておいでです。 確かめていませんが子供神輿なんでしょう。 
廻りが暗い坂の途中に灯りが点いていて一寸した雰囲気があるところです。

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近年加わった呼び物の大燈呂。 これはエベッサンですね。 2010年にはまた新顔が加わったはずです。

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こちらがメインの御神輿。 市内有数の大きさで、体育の日の当日氏子町内巡りの途次に、青蓮院の斜め大階段を登って参詣する様は圧巻です。

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粟田神社には稍小規模ながら橋掛りも備わった立派な能楽堂があります。 今宵の神賑わい行事は此処が会場で町内氏子近隣の衆が集まりますが、メインのイベントは石見神楽。 演ずるのは京都造形芸術大の皆さんです。 
話だけ聞いたときは文化祭に毛の生えたものかと思っていたのが、とてもじゃない。 石見まで出張って本式に修行してきたとかで、写真はお師匠さんでしょう。 このようにきちんとしたご挨拶から始まりました。

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演目は恵比須と、石見神楽の定番おろち。 先ずは恵比須から。

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恵比寿様は境内に摂社としてお座りで、ヤマタノオロチの主役である素戔嗚尊は、当社の御祭神です。
 十日戎:粟田神社

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何故か大国主尊~大国様とお二人で出てこられ、観衆に飴を播いたり色々ありますが、メインのアクションは鯛釣りです。

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なんで大黒様まで鯛釣りをされるのか判りませんが、とにかく賑やか、はれやか。

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石見神楽の独特の掛け声とお囃子の元で、とにかく目出鯛お神楽です。

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所作、アクションのみならず衣装、お面なども間に合わせではなく、石見現地での調達なんでしょう。

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とにかく目出度い、目出度いお神楽は終わって、次はヤマタノオロチです。

再度お断りいたしますが、此の映像は今年のものではなく、昨年09年のものです。 今年は開始が少し早くなって、18時30分からという情報まで入手していながら、スポイルしたために何がどのように行われたのかも知りません。 その辺りは御斟酌の上ご覧の程をお願いいたします。
などと言いながら悪のりして、暫く去年の粟田祭で休業を続けます。

≪    本日も休業:櫛祭余聞 

本日も休業:粟田神社・石見神楽(09)    ≫


2010年10月12日 (火)

本日も休業:櫛祭余聞

また変なタイトルが現れました。 
此の数日腹具合が悪くて・・・、と云うのは現象面ですが、どうやら根はもう一寸深いような症状?。 で、スケジュールがメチャメチャ、と、云うことは9日夜の神賑行事=石見神楽、10日夜の大燈呂と れいけん祭、11日の御神輿と剣鉾巡行~何れも粟田神社~がオールパーと云うことになりました。
体調としても余り類のない状況で、単純に云えば全く行動不能,、寝たきりに近い状態です。 どうもこうしたことが此からも覚悟しなければならないお年頃になりましたので、とうとう白旗を掲げることに決めました。 
新作ではなくて間に合わせの古物やなんかで誤魔化す日の状態を、本日休業に ”も” をくっつけて表すことにしますので、此のタイトルの日はそう言った最大限にいい加減な頁の日ということになります。
 (カッテにどうぞ)

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今年は櫛祭も空振りしました。
経緯は何度か書きましたので、恥の上塗りは止めて、去年一昨年辺りの未使用分をちょろっと載せて本日のノルマと致します。

(チョウまて!! いまさらノルマか!?)
(いまのは、誤記、誤植、間違い!、訂正!!)

写真:上

鎌倉時代貴婦人の道中姿。
虫の垂れ衣 と呼ばれるものです。
夜目遠目笠の内と云いますが、櫛祭りの美女行列で唯一笠を被って居られるので撮らせて貰うのが大変な方なんです。
此は白川端の休息時。

写真:下

こちらは行列が神社に戻ってきたところ。
本職の舞妓さんたちです。

またやらかしました! 委細はコメント欄zuzuさんのご指摘をお読み下さい!


写真の選択に基準はありません。 以前に撮っていて使ってない駒で幾らか増しなの・・・・と云う程度です。

  櫛祭  と言うキイワードで検索したとき、Google内のブログ:ノルマ!!(ほぼ全タイトル)です。 ご利用下さい。

≪    三条小橋下る

本日も休業:粟田神社神賑の夜(09)    ≫

2010年10月11日 (月)

三条小橋下る

高瀬川沿いに三条まで下がってきました。     

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安藤さん設計の建物の向かい側に、小橋に関する写真入り由来書きが出来ていました。 とても参考になる内容ですが、下の模様が気に入りません。 きっと新撰組のシンボルマークでしょうが、私は新撰組が大嫌いなものですから・・・。
(ニンキモノの悪口云うたら、シチョーリツにえいきょうするで) (きらいなもんはキライ。やすもんのかんせいてろりすとしゅうだんやんか)

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こちらは小橋の西北側。
この辺り、幕末も繁華街だったんでしょうね。
こんな話題には事欠きません。


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で、小橋の南東側にはこれ、瑞泉寺。

石柱にあるとおり、太閤秀吉の甥であり、関白であった豊臣秀次の供養寺です。
彼は悪逆無道の汚名を着せられて自害に追い込まれましたから、通常の意味での墓はありません。
此のお寺は角倉了意が高瀬川運河を開削したとき、この場所にあった通称悪逆塚、秀次死後太閤の命令で幼児妻妾眷属一同39人が公開処刑された跡に築かれた~が荒れ果てて居るのを見て供養のために建てたものです。


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この辺りは当時は鴨の河原の中州であったようで、関白御台を始め妻妾34名幼児5名を洛中引き回しの上、この場に秀次の首級を据え、その前で衆人環視の中に公開処刑しました。 39の死骸を一つ穴に投じて埋め、築いた塚の上には秀次の首級を納めた石の櫃を置いて晒したのです。
写真はその時に刑場に置かれたと云う、お地蔵さんを祀るお堂です。

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境内の奥に五輪塔の石垣に囲まれた一郭があります。 石垣の柱一つ一つが犠牲者の供養塔で、主君に殉じた家臣10名と共に秀次の石塔を囲んでいます。 此の人達は太閤に抹殺され、其の豊臣は徳川に滅ぼされたのですから、近年になって整備された此の墓所以外に弔われる所がありません。

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正面の石塔の下に石の櫃があります。 伝承の通りなら秀次の首が納められている筈です。
なお秀次の胴骸は高野山山中に捨てられて墓標は立っていますが、その場所は多くの武将達も眠る奥の院(信長も光秀も居ます)とは遠く離れたところです。
もう一つ、京都には善正寺 と云うお寺があり、これは秀次の母即ち秀吉の姉が後に建てた墓所。 寺名は悪逆と云うレッテルに抵抗するもののようです。

秀次がそれほどの悪人だったのか? 戦国武将だから自分の手で人を殺したことはあるでしょうし、関白ともなれば複数の妾女が居てもおかしくはありません。
全ては実子、後の秀頼誕生に伴って邪魔者になった・・・と云うことに尽きるのでしょう。
朝鮮侵略を始めたことと云い、太閤になってからの秀吉こそ、否定されるべき存在でしょう。


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初めて御本堂を覗きました。 と云うのは今までは閉じられていたのが、御本尊廻りに灯りが点き、土足でも縁の上まで上がれるようにされたお陰です。 金色の御本尊のお姿に向かい側の地蔵堂の屋根が写り込んでいます。
(この辺りに関しては母屋の山紫水明抄 青巌寺  高野山金剛峯寺と秀次の謎  もどうぞ)

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さて瑞泉寺を離れて一筋下の通りを河原町方へ向かいます。 北側には当節大流行の坂本龍馬ゆかりの地の一つ、海援隊の京都の根城であった材木商の酢屋さんです。 (私は新撰組が大嫌いで太閤秀吉も?ですが、竜馬は信長の次に好きですよ)

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其の横に余り目立ちませんが、きちんとした和風のお店がありました。 昔は先斗町までこんな感じの家並みだったのかも知れませんが、今の河原町に近くなると、少々浮いて見えるかも知れません。 其の店先にあった天水桶~手水鉢~金魚鉢? でもやはりいい感じ、やっぱり京都ですよ。

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其の続き、更にもう少し河原町に近づきます。
より一歩今風になってきましたが、でもこの辺のお店はもう相当に老舗でしょう?。


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河原町に出てしまいました。
此処くらいになると、大きな声で老舗、と云っても叱られないでしょう。
コーヒー通でないことを自覚している僕でも昔から知っていますもの。

 

 

今回の街歩き、一旦此の辺りで終了です。


≪        御池大橋辺り

本日も休業:櫛祭余聞    ≫

 

2010年10月10日 (日)

御池大橋辺り

頂妙寺を訪れた後、繁華街の方へ向かいました。 仁王門通から先ず川端通、御池大橋を渡って木屋町に出て高瀬川添いに下の方へ。  そこまでが本日アップ分で、三条小橋を越えてから河原町と、途中の瑞泉寺以外は格別のこともないルートです。 従って映像もごく平凡、特筆することはありません。     

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仁王門通を川端へ出ました。 川端通というのは元は疎水が横を流れる小路でしたが、京阪電車が地下化し、終点が三条から出町柳まで伸びた際に、軌道の巾一杯を使った道に拡幅されて、京都の新しい南北幹線となりました。  それまでは烏丸から東の南北交通には繁華街の河原町と、観光ルートでありその昔の国道1号でもある東山しか無くて、難儀なものでした。
写真正面に聳えるのはホテルオークラ京都。 鴨川からは大分離れて河原町沿いですが、景観論争の主役でした。

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疎水の本流は夷川のダムから西流して鴨川に入り、一部は西側で鴨川の床に風情を添えるみそそぎ川になりますが、大部分は昔の流路で川端通の横を流れます。 但しそれも御池大橋の北までで、それから暗渠となって京阪のトンネルと重なって地下を伏見の方へ向かいます。 写真は開渠部分の終点から北を見ていますが、水門は暗渠と鴨川への放水量とを調節するためのもの。 此処では水面は地表~つまり鴨川堤防上のレベルを基準とした高さにあり、西側のみそそぎ川は中段堤防の上を流れています。 鴨川本流の水面はそれら二段の堤防の下になるわけですが、これは昭和初期の大水害の教訓で、鴨の流れをコントロールするためのものでしょう。  (白河法皇もビックリ)

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御池大橋です。 御池通は疎開で出来た都心の東西大幹線ですが、其の誕生の経緯から東は鴨川までしか無くて川端止まり、東大路にまで繋がっては居ません。

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前の写真のところから下を見ています。 自転車が走っているところが下の段の堤防の上です。

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橋を西へ渡って北を見ています。
みそそぎ川が下の堤防の上を流れて、そこに床が掛けられています。
向こうの橋は二条大橋、その辺りは前に載せた記事をご覧下さい。

鴨川:二条大橋あたり10/08/22

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御池大橋を渡りきって西を見たところ。 地下駐車場の入り口が道路中央に見えます。 地下鉄東西線の上、地表との間に延々とあって、駐車自体には便利ですが、過剰投資で赤字の元でしょう。

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木屋町、即ち高瀬川添いに迄行って、下の方へ向かいます。 このあたり加賀藩邸跡とありますが、近くには土佐藩邸跡もあり、京都留守居の屋敷は各藩とも持っていたわけですから、探訪し出したらきりがないことでしょう。

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高瀬川はご承知の通り、徳川初期に豪商角倉了意が開削した伏見港と都心を結ぶ運河ですが、現在は浅いせせらぎです。
そのレベルは一般の地表面になりますが、当初は鴨川と同じくらいの高さに水面があったのでは?
大体河原町の名の通り、この辺り一帯は鴨川の自由な流れ~河原であったのでしょう。

(ところで、このシャシン。 なんや?)
(すんまへん、sango氏の自画像でんね)


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高瀬川西の岸にはビルが接しています。 今時ですからテラス式のお店も増えています。 そこに外人さん夫妻が納まって、画になってます。

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三条小橋まで下がってきました。 
此処も由緒の旅籠だったようですが、最近高層ビルに建て替えられて、高瀬川端をテラスにしたお店が出ています。


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さらに三条小橋を下がります。
西南側は安藤忠雄さん設計のお店ですが、廻りの空間との馴染み具合、流石に群を抜いています。


ここん所で後ろ~つまり木屋町の東側~を振り返ってみます。
うってかわって”楽しくない” しかし京の都ならではの史上の話題に移ります。

≪        頂妙寺

三条小橋下る    ≫

2010年10月 9日 (土)

頂妙寺

秋晴れの一日、二条から三条あたりの賀茂川周辺を歩きました。 特にイベントなどではなく、ことに今日のお寺などは全く知名度も高くありませんし、もちろん観光寺院ではありません。 私事で御縁があるだけで、画になるようなものもないですが、一応の巨刹とはいえましょう。 荒れている境内ですが 、天気が良くて御本堂の虫干しなどもされていて、なんとなく写していたら纏ったものなのです。    

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はっきりしたことは知りませんが、日蓮宗の御本堂は平面がT形をしているのが多いようです。 こちらの場合は後方に突きだしていますが、前に出ていたり前後に出ばって十字形になったりしているのもあるように思います。

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普段は締めきってられる御本堂が今日は通風中。 ことほど左様に良い天気でした。

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横のお堂の縁まで上がって写した境内です。 今日日のご多分に漏れず大半駐車場ですが、広い敷地に大きな樟が枝を広げています。

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周辺には幾つかのお堂が有って、更に八つの塔頭が並んでいます。

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御本堂前の広場ですが、些か殺風景です。

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こちらが御本堂の正面。
結構大きく立派なものです。

天明8年(1788)の大火後の再建とか。


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日蓮宗だからでしょう、お稲荷さんの鳥居が違和感無く納まっています。

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御本堂の正面にあるのが仁王門。


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仁王門から透かして南を見ています。
山門が見えていまが、その前の道の名は仁王門通 。


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仁王門の前に廻りました。 上層の高欄下に曰くありげな額が掛けられています。 これは天正十二年に当山の日珖上人が秀吉から授かった旧地への回帰御免状の写しのようです。

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と云うことで、やっとこちらの正体?が現れました。 蹴上から川端まで、広くなったり狭くなったりして続く、京都東郊の一幹線、仁王門通のネーミングの元になった門を持つている、仁王門川端東入る北側から二条川端東入る南側までに広がる日蓮宗の本山寺院です。

≪        京都植物園:10/10/06・日本の森-2

御池大橋辺り    ≫

2010年10月 8日 (金)

京都植物園:10/10/06・日本の森-2

引き続き日本の森の中で、森の下草的なものです。 皆小さい花なので アップ率は大きいですが、今回のは何故かピントの怪しいのばかりです。 

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早速名前が判りませんが秋海棠でしょう?

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ミツデコトジソウ シソ科 と、ありました。  本州西部、四国、九州

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スズムシソウ が未だ残っていました。

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アシタカジャコウソウ  シソ科  中部地方から四国。 現物より大きく写ってます。

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これも小さな花。 カキバヒキオコシ  シソ科  関東、中部地方北部、奥羽

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カリガネソウ

葉に臭気があると云うことですが、未だ感じたことはありません、


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シモバシラ  冬枯れた根本に霜柱が立つのだそうですが、早朝でないと見られないでしょうね。 シソ科

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シライトソウと云ったのかな?


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ノダケ セリ科  だろうと思います。 大きなのは人の背ほどあって沢山居ましたが、これは未だ若い花?

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ギボシ  擬宝珠の何かですかな。

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コンテリクラマゴケ イワヒバ科 中国原産 とあった札が此かいな?

≪        京都植物園:10/10/06・日本の森-1

頂妙寺    ≫

2010年10月 7日 (木)

京都植物園:10/10/06・日本の森-1

久しぶりの植物園です。 30分に一本の北8と云う北山通~白川通~北大路~千本と循環するバスで北門前まで乗っていきました。 足を使うのは園内だけでやっとこさの今日この頃です。     

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良く整えられた公共施設らしい光景。 北門を入ったところで、見えませんが木立の向こうは京都コンサートホール、それに陶画の庭です。 池の中には何某かの彫刻の展示が。

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例の如く日本の森へ向かいます。


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琵琶湖の畔にはツリフネソウが今盛りです。 
これは白花。


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そして紅花。


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名前、出てきません。 綺麗な小さい花。 
(実は調べる閑がないんです。 珍しく写してきた翌日アップの工程でやってます)
わかりました。  アケボノソウ  リンドウ科  (10/07)

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水引草の葉っぱに紅白のがある、と案内があったのですが、見つかりませんでした。


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季節外れ?の杜若が一本。


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ヒヨドリバナ  キク科

何箇所かに固まっていましたが、そこに群れていたのが・・・・


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旅の途中のアサギマダラ達が集まって、盛んに蜜を吸っていました。

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ミスジチョウにつれて追加しておきました。 (ツイカするんやったらまだあるヤロが) (出し惜しみ!)

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これ、見たところ変哲もない蝶ですが、横にいた詳しい人によると、ミスジチョウの仲間で元もとは信州の山奥にしか居なかったのが、食草にくっついて植物園にやってきて居着いたんだそうです。

 → 詳細調べました。 下記。


 

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10/07 追加:

当日現地でお会いした方(一脚に長玉つけて撮ってられました)から詳しくお聞きしていたのですが、メモっていなかったので少しあやふやでした。
帰って調べた結果と写真を二枚追加いたします。

ホシミスジ (タテハチョウ科)
類似のものにミスジチョウ、コミスジがあり、何れも前翅表面に三本の筋がある。 これ等は関西でも見られるが、ホシミスジは本来居なかった。
食草はシモツケ科のシモツケ、コデマリなど。
後翅裏面の基部に見受けられる数個の黒点、前翅表面中央の白線の外側半分が、星の様に 4ヶ程の白い点に分離されているのが識別点だそうです。


 

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これは入り口の花壇に群がっていたヒョウモン?の類。 蝶々も昔(65年前)はお馴染みで概ねはそらんじていたのですが・・・

≪    祇園巽橋切り通し

京都植物園:10/10/06・日本の森-2    ≫

2010年10月 6日 (水)

祇園巽橋切り通し

どうもこの頃愚痴が多くていけません。  (グチル前からグチッてどないするんや)     (・・・)  
十月のお祭りシーズントップを切って北野さんの神幸祭=芋茎祭りに行きました。 結果は昨日までアップしたとおりです。 此の後甲御供還幸祭 后宴祭 と続いてブログ上は大賑わい・・・の筈ですが、身体が持ちません。 行事の内の何かをセレクトして今週くらいは北野さんのお祭りで過ごしたい処です。 
そこで昨日の還幸祭、芋茎神輿と本神輿が行き違うシーン もあり、上七軒の綺麗どころのお出迎え ありで、これがお祭り本番ですが、しんどいので迷って居たところ、天気予報は雨。
この頃は京都市北区の局地予報で三時間刻みですから便利ですが”天気予報”のことですから、今の精度でも”下駄の歯”ひっくりかえすようなことは、有り、なのです。
現実の空模様とPC上の表示を睨みながら、逆にこんな時こそチャンス、上七軒に蝟集する狒狒ジジカメラマンの数が少なくていいんではないかいな。 と思いつつ体力だけでなく気力も衰えていて出そびれました。 結果的には本番時には晴れて良い天気。 
こんちくしょうと今日(10/05)の后宴祭へ行こうと思い、今度は腹具合がおかしくなってまたまた止め。 と云うわけで今年の芋茎祭は完全不発に終わりました。 
腹立ち紛れにこの頁に無茶苦茶リンクを張りますので、そちらを宜しくどうぞ。(その先からまた色々繋がります) まあ例年同じ事をなさっているのを同じ奴が撮るのですから、似たようなものかとご承知下さい。

と前置きを置いて、今日の頁ですが、これまた愚痴の種。 
前にも書きましたとおり、櫛祭 の本祭りは省いて行列を祇園新橋あたりで待ち受ける作戦が、今年から経路変更となりフラレました。 どうも還幸祭の天気と云い、神さまから見てコイツ、信心が足らんから懲らしめてやれ、と云われていそうな状況ですが、とにかくその日(9/17~例年第4月曜日)暗くなり掛かってからすごすご引き上げました。 何時もの私ならそこでファイトを燃やしてなんかでっち上げて帰るのですが、それも叶わず降りはじめた雨に追われて逃げだしたのです。
・・・が、ほんのちょっぴりだけ根性が残っていたと見えて、灯灯し頃の辰巳大明神、白川と巽橋、切り通しの情景にシャッターを切っていました。 
全くのその場限りですから何時もの枚数は揃いません。 ただし逆に云えば12カット20枚シャッター切ってアップ7枚、打率3割5分ですから、良しとして下さい。

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新橋通と白川南通の別れ道 辰巳大明神。

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白川に掛かる巽橋

石畳が少し濡れ始めました。


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そして橋の上からの白川。

空は暗くなってきましたが、今のところ家並みの灯りはそう見えません。


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切り通しのお店

柳に石畳、夕暮れの灯り、&小雨。


(タランのはウデだけやな)


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今風のお店もあって、開店準備中でした。


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末吉町の方へ抜けました。 目に触れたこの街の日常的光景

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いい店構えのお店ですが、今風の変身工房です。


≪    芋茎祭10お旅所:八乙女田舞

京都植物園:10/10/06・日本の森-1    ≫

2010年10月 5日 (火)

芋茎祭10お旅所:八乙女田舞

     

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さて三つ目の御鳳輦も到着です。
こちらの屋根は黒漆?塗り。 
棟の鳳凰が綺麗です。 


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お旅所の建物にお入りになるのには、どの御神輿も鴨居の下を潜るのに一苦労です。

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三座とも安在所にお座りになりました。 これから飾り付けなどがあって、着御祭の運びとなります。

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鉾頭は各一本、御鳳輦の左右に据えられます。 松鉾、梅鉾と云うようです。

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準備が整って役員方も着席になり、神前に神餞が勧められます。 着御の神事です。

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着御神事が終わって、着飾った八人の乙女、八乙女が入場してきました。

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神前の白砂には筵が敷かれて、鈴の舞の用意も調いました。

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奉納の舞は鈴を使った舞と田舞という舞があります。

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安在所に西日が射し込んで、可愛らしい八人の乙女が舞います。 此の奉納舞はお祭りが終わった翌日の5日15時半、北野のご本宮前庭でも舞われます。 これを后宴祭と云います。

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二つの舞を無事に舞い納めました。 この子達は還幸祭の行列にも倶歩しますが、后宴祭はあまり知られていないせいか、観衆も比較的少なく、場所も広いので、ご覧になるのはこちらの方がお奨めです。

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祭事の全て終わるともう日の暮れになりました。
縁日の夜店は、これからが本番でしょう。
お店の灯りと西日が入り交じって、いい雰囲気を醸し出しています。


≪    芋茎祭10お旅所:御鳳輦着御

祇園巽橋切り通し    ≫

2010年10月 4日 (月)

芋茎祭10お旅所:御鳳輦着御

此処の縁日はそれほど大規模ではありませんが、如何にも縁日らしい良い雰囲気です。

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天神さんのお旅所は西大路から少し入った所。 
上の上立売と云って、この辺では何故か上立売通が上と下二つ平行して存在する別名が妙心寺通りにあります。

大体上立売(かみだちゅうり)通そのものが中立売(なかだちゅうり)、下立売(しもだちゅうり)と、それぞれ幹線ではあっても結構ややこしいのに、こうなっては敵いません。
これは此の辺りが古くから開けていて、且つ都の郊外であった名残なんでしょう。


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屋台の群の奥に鳳輦三座がお座りになるこの御座所があります。
ご到着後は神事があり、八人の乙女による奉納舞が行われます。


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鳳輦をお迎えする台も今は未だ空っぽで、前庭の白砂に箒目が立てられ、西日が射し込んでいます。 

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3時半過ぎ、行列の先頭を行く猿田彦の神がご到着です。
天孫降臨の道筋に立って道案内をしたという神話から、あちこちのお祭りで行列の露払いをされていますが、大方は此の天狗さんのお姿ですね。

今仮屋にお入りになりました。


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鉾も幾つか行列に加わっています。

ただどれも完全な形ではなく、従って差して歩くこともありません。


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社頭には幟が立って、お祭りの雰囲気が盛り上がります。


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また別の鉾、と云うより鉾頭の装飾が到着しました。
これは台車の上に乗っていて、相当な大きさがあります。


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そして御神輿、こちらでは鳳輦がご到着です。 三座あって此は先頭の四角い屋根のもの。  

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御座所の幔幕を潜って中へお入りです。

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続いて八角の屋根の御鳳輦が到着です。 どれも台車に乗っていますが、御座所へ入るには担ぎ手が腰を屈めて担いではいる必要があります。 此のあと三つ目がご到着ですが、以下明日。

≪    芋茎祭10お旅所:芋茎神輿

芋茎祭10お旅所:八乙女田舞    ≫

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また出ました! 
忍者犬、ペキニーズのブー君です。 京都のお祭りで彼が現れないところはない、と言っていいでしょう。
今や結構仲良しです。

 

 僕のブログ ! ですよ。


 

2010年10月 3日 (日)

芋茎祭10お旅所:芋茎神輿

10月になりました。 秋祭りの季節です。 
去年までのように張り切って走り回るのはもう無理ですが、付かず離れずにおつき合いしたいと願っています。
そこで京都の秋祭りというと、10月1日の北野天満宮神幸祭から、と言ってもいいのでしょう。 この日御本宮を出発された三座の御鳳輦は市中巡行の後3時半過ぎに上の上立売佐井にあるお旅所に到着されます。
此処に4日間お泊まりになって、4日13時出発、17時頃本宮にお帰りになりますが、此の行列は只の還幸ではなく、御神霊が九州から都へお帰りになる様を模しているとかで、上七軒を通る辺りことさらに華やかなものです。   
例年はその辺りもフォローさせて頂いていますが、今年はどうなるか判りません。 とりあえずは1日お旅所まで出向いた次第を三日ほどアップいたします。
速報性がないのが売りの此のブログが、珍しく1日のことを3日にアップするのには訳があります。
此のお祭りの別名芋茎(瑞饋、ズイキ)祭の由縁である、芋茎神輿がこの4日までお旅所に据えられているからです。 
何しろ珍しい物ですから御用とお急ぎの方でも、未見であればこの間にお運びになる価値があります。  
   此のブログ内の過去の芋茎祭

(注: お旅所の場所=上の上立売佐井~これは京都の古典的XY座標式表示で正しく記述しています。 但しこれで素直に場所が判る人は近所の人以外は先ず無いでしょう。 (京都検定何級やったらワカルやろ?)  へそ曲がりは止めて判るように云えば、円町から西大路を少し上がって西側北野中学手前の道=上の上立売(かみのかみだちゅうり)通=妙心寺道とも言う)を西へ200mばかり行った佐井(さい)通りの角です。

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其の芋茎神輿ですが、子供神輿と大小二つあり、お旅所の一番奥に据えられています。
詳しい由来などは前記した過去の記事などを参照頂くとして、全て農作物の生もの及び乾物で手作り~もちろん毎年新調~された御神輿で、屋根が芋の茎=芋茎で葺かれていることからこの名があります。
これは南向きに据えられた正面側の姿で、多くの御供物が並びお賽銭を上げる方が絶えません。

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今年初めて見た看板がありました。 クリックして大きくして頂くと読める・・・かも

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真後ろの側です。 四面の鳥居の内側と欄間に毎年趣向を凝らした飾りものが置かれます。 テーマは立て札で判りますが、なんで出来ているか(もちろんすべて農作物)は、なかなか判りません。

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屋根は芋茎(唐芋と真芋の二種類)で構成され、四方の支柱は真紅といい、乾燥した千日紅の花の地に白花の千日紅を貼り込んで、天満宮と浮かび上がらせています。

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唐破風の屋根のアップです。
二種類の芋の茎が使われているのが判ります。
千木の模様は、木の骨組の上に麦藁などを切り抜いて貼った物だ、と言うことです。
真紅に付けられた稲穂の上には天神さんの御紋所、藁で編んだ梅鉢が飾られています。


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御神輿本体四隅の柱の一本ですが、松に雀?鳩?のようですね。
鳥の種類は兎も角、材料は茗荷かなんかやろか?


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正面側の欄間です。 テーマは花咲爺さん。 か、と思ったら ”魚すくい”と在りました。

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向かって左側面の鳥居の奥。 お城ですが石垣がピーナッツで、屋根瓦は昆布だと云うことは判ります。

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後ろ正面の欄間のテーマは”ムカデ退治”  百足の後ろの葉っぱは三上山、武者は源三位頼政(これ、大間違い! 頼政はヌエで、三上山を七巻き半して瀬田の唐橋に首を出している大百足退治は、東国は田原の住人藤原の太郎秀郷、つまり俵籐太でした) 
なお破風の下にいる怪獣?は毎年同じなのですが、どういう謂われの存在かな?

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大人用の御神輿の大きさは普通に見る御神輿並か稍大きいくらいですが、それより少し小振りの子供神輿が別のお堂に座っています。 これは側面で、欄間にはティラノソウルス。

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構成、製法その他大人の神輿と全く同じ。 還幸祭当日には御神輿三座~こちらの場合は鳳輦~と大人の芋茎神輿、子供の芋茎神輿の列は、それぞれに異なった経路で町中を練って行き、北野へ向かいます。

明日は鳳輦のお旅所ご到着、明後日は八乙女の奉納舞などです。

≪    10秋・萩:梨木神社

芋茎祭10お旅所:御鳳輦着御    ≫

2010年10月 2日 (土)

10秋・萩:梨木神社

出町柳からバスで二つ目、府立医大病院前で降りました。 停留所間の間隔が広いところではありますが、たったそれだけを歩かずにやってきました。 でも少し給水切れの症状が出ていて、油断は出来ない雰囲気ではありました。   

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梨木神社は京都御苑の中程東側、寺町との間の南北に長い敷地です。 この辺が織田信長の大馬揃えが催された場所ではないのか?、とも言えそうなところです。 
写真は御苑の東側に二つある御門の内、下手にある清和院御門で、梨木神社の一の鳥居はこの前です。

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こちらも萩を名物にして居られますが、一の鳥居から真っ直ぐ御本殿までの左右には萩の株が列植されていて、多くの短冊が下がっており、奉納の句が書かれています。


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もう一つのこちらの名物、染井。 かつて宮中御用の染め物の水として用いられたと云われ、京都三名水の一つとされています。 今も滾々と湧き出ていて、常に大勢の人が頂きに列をなしています。

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例年此の季節には萩祭りと云う名の催しが行われます。

今年は9月18.19.20日とのことで、例年は狂言、弓術、倭神楽など多くの奉納行事があるのですが、今年は舞台となる拝殿工事のため全て催されませんでした。

梨木神社萩祭:三三九手挟式

その他ブログ:ノルマ内の梨木神社

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工事中の拝殿の脇を廻って参拝です。 御本殿に向かって右側の一群が例年一番いいようですが、木の素性なのか、環境なのか、それとも手入れの違いなのか?

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こちらの場合も全体にやや早いような印象でしたが、それとも他の理由で花つきが悪いのでしょうか? 此処の一群はそれ程ではありませんが。

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御本殿前と云うことも有ってか、ことに多くの句の札が下がっています。


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こちらの御由緒は比較的新しく、明治維新の元勲三条実萬、実美公父子を御祭神としています。


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群としてもう一つ写真写りの良いのがなかったので、個別に良さそうな一片を選んでアップです。


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気が付いたのですが、萩というのは余り日当たりが良くない方が様になる・・・様な感じですね。
少なくとも乾きがきついと良くないような。



≪    10秋・萩:常林寺

芋茎祭10お旅所:芋茎神輿    ≫

2010年10月 1日 (金)

10秋・萩:常林寺

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つい一週間も前には真夏日だったのに、一応秋らしくなってきました。
猛暑ゆえの体力消耗は多少治まったものの、今度は気候急変による体調不全と、問題は累積してきます。
それはともかく、暑さが治まったからには少し歩くべしで、先ずは秋の定番の一つ、萩の状況偵察から始めます。
出掛けたのは9月の29日。 
定番と云うからには定番中の定番、出町柳の常林寺と御苑東の梨木神社へです。

 (ツマラン!)  (うるさい!)

結果はアップの通りですが、結論的にはやや時期が早いか?と云ったところでした。

(ますますツマラン)


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萩という木?草?
集団で蔓延って一面の花がしなだれて居るという風情が一つのポイントでしょう。

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白花と赤花、一つ一つの花はあまり意識に登りませんが、近寄ってよく見ると結構それなりの形をしています。

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やや早かったのと、このところへたり加減なのか、全体としての花つきにはもう一つ見事とは言えないところがあって残念で、良さそうなのを個別に選んでのアップです。

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何故か黄色い蝶が集まってきます。 
これは爪黒ですからツマグロキチョウ? 
ただ蜜を吸いに来るにしては黄色いのばかり寄ってきますから、萩が幼虫の喰草とかなのでしょうか?

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常林寺は文字通り萩の寺。
従って冬には只の空き地同然の様相で、今の季節は一面が萩の藪です。


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これは門のすぐ脇にあるお地蔵さん。


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そして川端通りに面した山門の見返しです。


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門から見た全景になります。 文字通り萩以外は何もない、と云っても過言ではありません。
かつて勝海舟が江戸長崎を往来するとき定宿にしていた、と云う伝承がありますが、今の季節以外には訪れる観光客も疎らです。

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さて常林寺を出て梨木神社へ。 地理的には徒歩圏で、目の前の賀茂川高野川合流点や今出川の大橋、更に河原を辿って歩けばせいぜい1kばかり、その間でもう一日分や二日分のブログは作れるのですが、たったそれだけを歩くのがしんどくて、バスに乗ってしまいました。
これは北隣の長徳寺 で、砂川の三軒寺の一つですが、写真に見えるオカメ桜の華やかさで有名です。 そしてこのまん前が出町柳の下行きのバス停になります。

≪    ルナ: そして駆逐艦雪風

10秋・萩:梨木神社    ≫


 



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