洛西あちこち [1]

2007年12月22日 (土)

嵐山花灯路07:夕景諸々

野宮(ののみや)神社。 黒木の鳥居です。

Kuroki

この間の竹の道、相当な逃げ口上で乗せましたが、まあ未だ何を撮ったのかは判ります。
今日の分は文字通りの落ち穂〜〜迄も行かない雑草みたいなもので、いったい何を撮ったのか・・・ですが、竹の道で撮った竹以外のもの、としか言いようがありません。
尤も今まで知らなかったお宮さん一つ見つけましたので、とりあえずはこれで今日一日分稼がせて頂きましょう。

灯りが点いての常寂光寺とか、大沢の池は昨日迄に載せてしまいました。
大勢の舞妓さんです。 大勢すぎます。
何でも大覚寺ではそのような催しもあるようで、十二単衣なんかも着ることが出来るということですが、こうなると変身も徹底しています。
但し十二単はお寺の中だけで、外へ出るのは駄目だとか。
(あたりまえや、ジンリキシャやのうてギッシャがいるがな)

この間と同じ踏切で、同じように電車が走り人力車が居ます。
角の紅葉がもうお仕舞いです。

その山陰本線〜嵯峨野線ですが、気を付けてみると随分の本数走っています。
市内バスの一系統は20分か15分間隔が多いですが、もっともっと多い感じです。

さっきの踏切とトロッコ嵐山駅、
つまり小倉山のトンネル入口の間に陸橋が一つあるのを見つけました。

実は線路両側の墓地を繋ぐお墓参り専用でしたが、
その上に立って撮った写真です。


やって来る電車の背景は小倉山。

向こうへ行くのの背景は比叡山。

やっぱし京都や。


雑木の紅葉ももう枯れました。
いよいよ冬景色です。
西の空は綺麗ですが、少し寒くなり始めました。



トロッコ嵐山駅の坂を降りて常寂光寺へ向かいます。


そこのところに大きな溜め池があるのですが、
その向こう側に御髪(みかみ)神社という、今まで知らなかったお宮さんがありました。

池を半周した対岸です。  幟が立っています。


ささやかな神社ですが、すっきりしていて鳥居が二本。 道路から少しあがってもう御本殿です。

元の道に戻って対岸から見た正面です。

この御髪神社の御祭神は藤原采女亮(うねめのすけ)政之と云う方だそうで、十三世紀半ばの方。

従五位だそうですから顕官ではありません。

訳あって零落された後、髪結い業をして生計を立て、此の業の始祖となった、と言うのが御由緒でした。
側には髪塚というのも、あるようです。

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2007年12月21日 (金)

嵐山花灯路07:長神の杜、大沢池


常寂光寺を出て歩き出しました。
もう行く宛はありません。
ですが帰りは大覚寺始発のバスに乗りたいのです。
花灯路の期間中は二尊院から大覚寺まで無料のジャンボタクシーが走っています。
それを利用しようと言う魂胆です。


落柿舎を横に見て二尊院へ向かう道すがらですが、
此の横に生け花プロムナードの一つがあって、
その奥には何かあるようです。


長神の杜、と銘を打たれた此の一画は、
檜か杉の木立の中に
小倉百人一首の歌碑が散在しています。

ライトアップの幻想の中で、
名歌を読み返して貰おう
という趣向なのでしょう。

小倉百人一首は此の小倉山の麓にあった、
藤原定家の小倉山荘で編纂されたのですが、
その山荘の在処については幾つかの候補地があって、
常寂光寺仁王門の北、二尊院の南、
と言うことはこの辺りが有力視されています。

もうひとつの候補は厭離庵ですが、
これは定家の子為家の居た所だろう、
と言うことです。

さてジャンボタクシーに乗りました。
お客は私一人、即発車です。
実は往復の需給が不均衡且つ変動するので、
このときは
「向こうで大勢待っている、と呼ばれたので・・」
と言うことでした。

バスの時間待ちに大沢の池の周りを回ります。

此処の趣向は概ね毎年同じです。
夏の愛宕古道街道灯しでも出てくる、
嵯峨美術大学のオリジナルという、
竹の特性を素直に生かした行灯が主体です。

(下)
池畔のお社の可愛らしい拝殿も、
何時も灯り造形の舞台です。
前は蜘蛛の巣状のものでしたが、今年はミラーボール状。
ちょっと苦言を呈すれば、こんな簡単な代名詞で表現され無いような造形をば、一つ・・・


(上)
此処にはテント掛けのお茶接待所がありました。
寒いから熱いお茶は有り難いです。
これは大河内山荘下にもありましたが、今年はスタバが無料?接待しているようでした。
此の大沢池畔には去年は美味しいうどん屋さんが出ていて、これはお寺での写経の時に出るものだそうですが、今年はありません。

(左)
池畔には幾つかのお堂があって、時代劇のバックの常連です。
その一つの前の灯りです。

灯りの群の中心にデンと座っている親方です。
4,5mもあるでしょうか。
上弦の月をバックに一枚撮ったもの。


毎年同じ趣向だとは言いましたが、
大小色々の灯りのレイアウトは毎年違います。

役者は同じでも、舞台空間はとても広いので、
並べ方の善し悪しは美術監督の腕次第。
そう言う意味では今年はよく纏まっていて、
近頃出色のように思いました。

此の多宝塔は昭和になってからで来たもので、
多分コンクリート製でしょう。

今夜は赤いライトに照らされて光っていました。


下は大沢池の水面に浮かんでいた灯りです。

発光ダイオードを仕込んだビーズが繋がって浮いている?

一塊りが桟橋の前に浮いていただけですが、
上手く使って増殖したら面白いかも。

水面を覗き込んで写していて、さて、と身を起こした途端ふらつきました。
もう一寸で池ポチャでした。
桑原桑原。
(ちゃうで、としよりのひやみず、ちゅうんやで)
(やめて〜〜〜)

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2007年12月20日 (木)

嵐山花灯路07:常寂光寺


やっと日が暮れてきました。
鐘楼は寛永18年建立、釣鐘は戦争中の金属供出で無くなって、昭和48年、最新の学識に基づいて再鋳された黄鐘調(おうじきちょう)の名鐘です。


日の暮れ方、常寂光寺に着きました。
明るい京の町をバックに云々は無理でしたが、丁度点灯前後になりました。
5時前、鐘楼の鐘が鳴り響き、やがてライトアップが始まります。

点灯直前。 仁王門を上がった正面の階段上からの撮影です。

今点灯しました。
未だ外の灯りをメインに写せます。

お寺に入って暫く進むと、正面に仁王門があります。
これは南北朝時代のもので、元和二年に本山本圀寺から移設されました。
中の仁王さんは若狭小浜の長源寺から来たもので伝運慶作。
これらの年号や地名は、此のお寺の由緒に深く関わっていると思われます。


暮れなずんできた京の町の遠望ですが、

(なんや、うっとしいだけやないか)
(うるさい)

遠くに比叡山から大文字、手前には双岡(ならびがおか)、
その左端には仁和寺の塔も見えました。

(せいかくにいうと、うつってました、やで)

もうひとつ、
これは写ってたんと違ごて、
写したんやけど、
京都タワー。


町の夜景の背中には、
此の妙見様がいらっしゃいました。

慶長年間の保津川洪水で流れ着いたご神体を、鎮守とされたものだそうです。

その横を辿って本堂の裏へ廻るとお庭があって、
元和六年京の町衆が献堂した、
重要文化財の多宝塔があります。

御本堂は慶長年間、
小早川秀秋が伏見城の客殿を移したものだとか。


妙見様にお参りして、町の方を眺めます。
目で見たように写し取れないのが下手の証拠でしょう。 (上下とも)

鐘楼の方へ戻ります。

正面階段上まで戻りました。
仁王門と、京の灯りと・・・

(やりすぎやで、なんもみえへんで)
(・・・・)

後先になりましたが、これが仁王門の正面です。

これも後先ですが、当寺の御由緒。
開山は日しん上人。十八歳で日蓮宗大本山本圀寺の住持となられた英才ですが、文禄四年(1595)秀吉の方広寺大仏千僧供養の際、教義を盾にただ一人欠席し、引退して此の寺を建てられました。
その時の大檀那は三好吉房、々夫人随龍院日秀、つまり関白豊臣秀次の両親。 
さらに歌人木下長嘯子、々弟小早川秀秋、つまり正夫人禰禰さんの実の甥達。
先に出た年号ですが、元和とは大阪落城を期に改元された年号で、若狭小浜は木下長嘯子、大名時代の名は木下勝俊の領地です。
関白秀次の最期はご存じの通り、小早川秀秋は一時は関白秀吉の養子で慶長の役朝鮮派遣軍総大将、そして関ヶ原での日本一の裏切り者。
つまり豊臣から徳川への世の”はぐれもの”の巣窟とも言えましょう。
(私が一番曳かれるタイプの方々、何しろカメラはニコンでなくミノルタ、車はトヨタでなくホンダ、野球は阪神、でなくてもいいが、巨人がまけると機嫌がいい・・奴ですから)

日しん上人のしん は、ネ偏に真で,macでは表現できますが、windowsでは出来ません。
(〜〜さっきの続き〜〜〜ウインドウズでなくマック!)

去年の花灯路常寂光寺です。

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2007年12月19日 (水)

嵐山花灯路07:竹の道、夕

12月17日の最終日、また嵐山花灯路へ向かいました。
去年は丹念に廻ってポイントは概ね全部行ったのですが、今年は息切れして、去年入らなかった落柿舎に入ったほかは何処にも余り食指が動きません。
ただ大河内山荘は未だですから、日の暮れ方行ったら嵐山の夕景が良いかも知れないな、また常寂光寺に灯りの点る頃京都市街の遠望をするのもいいのかな。
この前の鷹峰の経験で、西側に山を背負っている此処は市街地には日が当たっていて手前側が暗い、と言う状況にはならないものか。
その程度の期待で出かけました。
ところが嵐電嵐山を下りた3時過ぎに既に日は山の向こう、嵐山自体は勿論逆光の陰で、時節柄紅葉もまずありません。
と言って花灯路の灯りは5時点灯です。
結局日も当たらず灯りも無しという、最悪の状態に相成りました。

今日の分はその状況での竹の道。
綺麗なものはライトアップしなくても、ヘタッピが撮っても綺麗です。













ルートは野宮神社から大河内山荘へですが、
日光も電灯光も無しの少し曇ったような天空光のみの竹藪です。
それなりに何とかなったでしょうか。


左の写真は嵯峨野線のトンネル上、この前ライトアップの竹の道でお見せした写真と同じアングルです。
この前のは線路とか電車とか言うものが丸で不分明なムード写真でしたので、説明用に乗せました。

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2007年12月16日 (日)

嵐山花灯路07:落柿舎

12月10日、鳴滝了徳寺のだいこ焚きを出て嵐電宇多野で4時過ぎ、落柿舎を目指して野宮神社から北へ向かい、着いたのは4時40分か50分頃。
5時の花灯路点灯前後此処に居座って、空の明かりと人工の灯りの変化を追い、その組み合わせを写真に撮り込む技を楽しみました。
デジタル写真のダイナミックレンジの広さを利用し、且つ高感度で出るノイズが何処まで除去されるか、と言った習作的興味で動いています。
この場合カメラボデイ内の手ぶれ防止装置は必須です。
結論的にはα700の場合、iso1600にして18〜80mmF=3.5〜4.5Vゾナー手持ちmax1/4secの範囲で、ストロボ無しとストロボ調光−1〜3段のスローシンクロを組合わせ、種々試みたことになりました。

このブログは写真入り日記ですが、京都の社寺やイベントを軸にしています。
観光案内ではありませんが、結果的にそう言った形でご利用の向きも多いようで、毎日400人近くおいでになっていて、大変有り難く思っております。
ただ本日のページは写真マニア的な部分が主で、落柿舎も去来先生も霞んでいますが、ご容赦下さい。

落柿舎の門前です。 その名の通り柿の木がたわわに実を付けています。
日は今落ちましたが、空の明かりは未だ十分残っています。
普通にスローシンクロボタンを押しながらのストロボです。
16時40分 f4 1/200 iso800 露出補正−1段 ストロボon調光補正−2段

中へ入ります。 拝観料は200円
日が沈んだばかりの西の山のエッジは立っていて、手前は逆光状態。 そして未だ花灯路の灯りは点いていません。
絞ったストロボを併用しましたが、少し利きすぎでした。
16時53分 f4.5 1/200 iso1600 露出補正−1段 ストロボon調光補正−2段

此処は芭蕉の門人向井去来の庵でした。
芭蕉も屡々立ち寄って、逗留したりしていますが、
ある秋、沢山あった柿の木の実が、一夜にして皆落ちてしまうと言う異変があって、
それ以来落柿舎と称します。
今の建物は復元ですが、これは竃のある土間。
井戸や流しなど、その頃さながらです。

下地窓の竹の隙間から、室内照明だけを頼りに撮りました。

16時51分 f5 1/6 iso1600 露出補正−3段 ストロボoff


此処は玄関です。

二帖ほど大きさで、
向こうに前の写真の竃が見えています。

瓢箪形の下地窓も
台所土間との境になります。



16時57分 f5 1/8 iso1600 露出補正−3段 ストロボoff 焦点距離20mm

同じ場所のアップですが、
柿の実がなる今が、
此の庵を訪れる最良の季節と言うことでしょうね。



16時59分 f5 1/8 iso1600 露出補正−3段 ストロボoff 焦点距離70mm 

説明を見ませんでしたが、
この一番広い四畳半の、
床脇に座ってられる十徳姿の方が、
去来さんでしょう。

きっと。



16時59分 f5 1/50 iso1600 露出補正−3段 ストロボoff
<
四畳半に続く三畳の間。
此の二間がメインルームで、
後は台所と玄関後ろに二帖の間が二つ。
まさしく庵で風雅なものです。

座机と行灯は此処が去来先生の書斎である、
と言うことでしょう。



17時00分 f5 1/10 iso1600 露出補正−2.7段 ストロボoff

5時です。
花灯路の灯りが点き始めました。

空の残りの青さも、
暗くなった向こう側の景色も、
そこに点いた灯りも、
柿の実に当たったライトの強い光も、
そして未だ肉眼で見える木の全体像も、
みんな写し込んで何処も飛ばず潰れず。
デジでないと無理な作業でしょうね。


17時07分 f5 1/25 iso1600 露出補正−2段 ストロボoff

とっぷりと暮れてきました。
室内には僅かの白熱灯。 四畳半の外見です。 (ノイズは凄いです)
17時17分 f5 1/80 iso1600 露出補正−3段 ストロボoff

隣に少し大きな建物がありました。

次庵と言うらしく、
句会やなんかに使われて居るようです。




17時03分 f5 1/40 iso1600 露出補正−3段 ストロボoff

すっかり暗くなりました。

もう花灯路の灯りがメインですが、空は真っ黒ではなく青が沈んだ黒、と言うことが視認できる頃なのです。



17時49分 f4.5 1/10 iso1600 露出補正−3段 

落柿舎を離れました。

もう真っ暗です。

フットライトを頼りに常寂光寺前を抜け、
竹の道を経由して、嵐電嵐山へ向かいます。 




17時49分 f4.5 1/8 iso1600 露出補正0段 ストロボoff

角を廻って常寂光寺の辻から振り返りました。
さすがに三脚無しは無謀ですが、web用でなら未だ間に合います。
17時49分 f4.5 1/5 iso1600 露出補正−3段 ストロボoff

追記:
私はミノルタ以来のα党で、この間も書いたとおり今度の700は惚れて手に入れ、大いに楽しんでいます。
当然肩入れして大いにコマーシャルを打つわけですが、一つ細かいところで訳のわからん事があるのです。
多分読まれた皆さんもそんなこと・・と思われて、多分ソニーの担当者もそう言った感覚で処理しているのでしょうが・・・
それはデジタルならではのデータ記録に関することです。
EXIFなどの規格のほか、独自のデータ、この場合はDRオプチマイザー等と言う、この機械の”売り”部分のデータなどもきちんと記録されて、後からPC上の付属ソフトで確認できます。
将にデジタルならではのことですが、不思議なことにストロボの調光だけが表示されないのです。
定常光の露出補正だけではなく、補助光として内蔵ストロボを活用する、その為には独立して自由に発光量を調節できるようにする、と言うのがミノルタ以来のやり方で、α9のようなハイエンドも備えていました。
因みにハイエンドなればこそ、小型ストロボを常備すべきなので、その辺二大メーカーとは考え方が違いました。
このストロボ調光を使う時は極めてデリケートな作業をしている訳で、調光量は後から参照したいデータの筆頭とも言えるものなのです。
ところがこれだけがコンピューター上で表示されない。
これはα100もそうでした。(しかし前身のミノルタスイートDでは付属ソフトで読めました。)
では見たいときはどうするのか。
データは記録されていて、事実撮影直後に背面液晶で確認できる項目の一つです。
で、一旦コンピューター上のファイルとして保存した元データを、コンピュータとカメラを繋いでCFカードに書き戻す。
なんのことはない、撮影した状態に戻してカメラの上で読め、と言うことなのです。
(これはソニーの公式見解です)
これが如何に不都合不合理で馬鹿馬鹿しいことか、本稿のうちの一つのデータを書こうとして、此の作業に真正面から取り組まされました。

此処まで読まれて皆さんは、その馬鹿馬鹿しさを理解していただく前に、書いている奴の馬鹿馬鹿しさに呆れられたことと思います。
ソニーの担当者の対応も多分そんなところにあるのでしょう。

嵐山花灯路

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2007年12月15日 (土)

嵐山花灯路07:竹の道


野宮神社北側の山陰本線〜JR嵯峨野線踏切です。

嵐山花灯路、
同じ冬の行事でもこれから暖かくなる東山花灯路に較べ、もう一つパッとしない印象ですが、初日8,9の土日は凄い人出だったそうで、私の行った10日の月曜日でも相当な人出でした。
しっかり根付いてくれるといいですね。
今回は総嘗めする元気はなくて、去年入らなかった落柿舎をメインにし、日の暮れ方、点灯前後の空気感を撮れないものかと出かけました。
帰り道は竹の道を通ろう、という考えです。

踏切を渡って北へ向かいます。

この辺りも竹の道の雰囲気ですが、今は4時半、

丁度日が沈んだ頃です。

真っ直ぐ北へ行って落柿舎まで来ました。
西の山端には残照が残っています。
落柿舎は明日纏めて見て頂くとして、此の後は帰り道の日が暮れて点灯した竹の道灯り、大河内山荘側から嵐電への道すがらの写真です。

これはトロッコ嵐山駅の丁度上、

大河内山荘の北寄りで、
山陰線本線上を列車が通過中。

(左の白い線が車窓の灯りの流れです)

大河内山荘側の竹の道。

肩が触れ合う混雑です。
その中に三脚を立てて制止されている人が居ましたが、此処ばかりは遠慮すべきでしょう。

尤も三脚無しでは写るはずもありません。


(あんたはんはどないしたんや?)
(もち、てもちやで)

此の竹灯りの道、
それは綺麗で値打ちがありますが、
所詮は見えるように照らされた灯りです。

写すとなると照明屋さんのお仕事のコピーにしかなりません。

広い花灯路の会場内何カ所かに、
こうした生け花系の
デスプレイが行われています。

VsonnerF4,0
0,4秒 
iso1600

手持ち(ボデイ内手ぶれ補正ON)

Web用になら、一応使えます。

相変わらずストロボを焚いている人が居ます。

人力車の若い衆がお客に言ってました。

「暗いところの雰囲気を出す為に、
ストロボは止めましょう」

彼はお客の彼女のデジカメで、記念写真を撮っているのでした。

〜わかってるぅ〜

野宮神社に近づくと、
ライトの調子が変わって、ナチュラルではなく、
いわゆるライトアップ調になります。

今くらいの程度に納めて置いて頂きたいものです。

嵐電嵐山駅まで帰りました。
留め置きのクラシック電車にライティングがされています。
法輪寺でやっているデジタル掛け軸と称するものらしいです。

電車が入ってきました。
ホームにある嵐山温泉足湯は大流行でした。

午後から夜までのお勤め、今の私は目一杯です。

嵐山花灯路

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2007年12月14日 (金)

了徳寺のだいこ焚き07:食べる


門の辺りが賑やかです。

見ると小学生の一団が・・・

きっと地域の行事の校外学習、体験教室なのでしょう。

門から外へ二列に並んで、団体客の用意が出来るのを待っているみたいです。

向こう向きが先生で、左の緑のジャンパーの人はだいこ焚きのスタッフの方でしょう。


歓声が上がって、どやどやと庫裏の玄関に掛かります。

でもこの子ども達、
ちゃんと履き物のつま先を外へ向け、
きちんと詰めて並べています。

えらい!

(あたりまえか?)


庫裏の広間は結構広いのですが、ご覧のように満員です。
幸い人が少なくなってきた此の時間帯、 でも一人、食べかけのおじさんが隅っこに追いやられていました。

10人ばかりが溢れて御本堂の仏様の前、先生も神妙に座ってお相伴です。

では、こちらも頂くとしましょう。
此処は三カ所ある食べる場所のうち、お庭に面した小書院で、いわば一番上等の席です。

了徳寺の場合、器が小さめなので中味が溢れ返っています。
でも大根は大きめのが2個、良く焚けていて味が染みており、別焚きのお揚げの味覚がまたとてもよくマッチしています。

これがお土産の台で、
手前が”おとき”です。

一度三宝寺の柚ご飯と食べ較べてみなければ・・・・

因みにこれはセットで1500円
だいこ焚きのみは800円


さて、食べ終えて外に出ました。

これは薄塚。

本堂の南で人目に付かず、去年は気がつかないで帰りましたが、
此のお寺の由緒で一番大切なものです。

親鸞上人が、だいこ焚きの接待のお礼に、ススキの穂で書かれた十字の弥陀の名号
『帰命尽十方無碍光如来』
(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)
が、此のお寺の宝です。


嵐山花灯路へとお寺を離れます。

これはお向かいのお寺で見かけた名残の紅葉です。

福王寺への道すがら、坂道に柿の木が何本か。


この子達はもうだいこ焚きを食べたのかな?

聞いた話では朝の空いた時間にも、小学生の一団が来たそうです。

仁和寺街道まで戻りました。
立派な地蔵堂があって、幼稚園バスが止まり、この子が降りてきました。

駅へ向かう途中に御陵がありました。 光孝天皇陵。 第58代(在位884~887)桓武天皇から100年ほど後の天皇ですが、調べてみるとちょっとややこしそうな方で別名を小松天皇といわれました。
光がつく天皇は先代(此の場合陽成天皇)とは傍系から出た方で、後漢の光武帝に倣ったものだとか。 南北朝合体(=南朝が北朝に吸収された)後の(北朝系の)第百代天皇は後小松天皇と諡(おくりな)されています。

宇多野駅です。 この間まで高雄口と言いました。 
観光客が誤解するので地名に改めたのですが、さっきの光孝天皇の次が宇多天皇で、この辺りに住まわれたらしいです。
ところで今丁度4時、花灯路に行くのにはいい具合の時間になりました。

去年の釈迦堂了徳寺・たべる了徳寺・つくるです。
今年の覚勝院三宝寺釈迦堂です。

追記:光孝天皇陵について
実はこんなところに御陵がある、と記録し、さて光孝天皇って?
と言うわけで、ちょっと調べたことを書きました。
ところが昨日”京都福王寺”という検索語から我がページにおいでになった方があったので、こちらも福王寺神社で検索してみました。
この前三宝寺のだいこ焚きの時、扉に福王寺神社を乗せながら、そこの御由緒を調べていなかったので、ちょっと気になっていたのです。

その結果、福王寺神社の御祭神は光孝天皇の女御で、宇多天皇の御母、班子皇后でした。
宇多天皇が仁和寺をお建てになったので、此処は仁和寺の鎮守社なのだそうです。
そして光孝天皇ですが、藤原氏が勢力を伸ばして陽成天皇を廃位した後に即位されて、初めて藤原氏から関白を立てられたという、複雑な政情の中で、
「天皇少(わか)くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」
と評された文化人でした。

実に浅学非才の至りで、小倉百人一首の

 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ

の作者だったのでした!

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2007年12月13日 (木)

了徳寺のだいこ焚き07:つくる


三宝寺もそうでしたが、
此の辺りのお寺とその行事は、地域によく密着している感じです。

これは民家の生け垣ですが、
此処には了徳寺とだいこ焚きについて、
詳しく由来や歴史が書かれています。

そのほか日取りや時間などについての掲示は、
街角の至る所で見かけました。

今度は鳴滝了徳寺のだいこ焚きです。
12月9日10日、日曜月曜の二日間。
千本釈迦堂は金、土で、土曜に行ったら食べ損ねたくらいの人出でした。
今回は月曜日、そのまま嵐山花灯路へ行こうと思って遅い目に出ました。
4時まで、と言うことですから花灯路の点灯5時とは丁度いい具合の連携ですが、今度は遅く行って無くなってたらどうしょうと、戦争中の欠食児童は思います。
安全策を採って2時半くらいに行きましたが、大丈夫。
ちゃんと頂いてちゃんと写真も撮りました。

了徳寺は福王寺の複雑な交差点の、嵯峨野への道と高尾への道の間にある細い道を下れば直ぐの所です。
この間の三宝寺とは距離的にはそんなに離れていませんが、あちらは送迎バスが出る程度に遠く、かつ山の中腹です。
福王寺から広沢の池の辺りまでは、植木屋さんのメッカです。
沢山の”やま””はたけ”〜植木屋さんの仕事材料、つまり樹木を植えた場所が集まっています。

その坂を下りて右へ曲がると此の景色です。
立派な地蔵堂があるところからは自動車お断り。

お寺の門前です。

確か去年も此のお店が出張ってました。

そして確か大福餅を買いました、
確か美味しかったので今年も買って、
嵯峨野歩きの兵糧です。

こちらのだいこ焚きはその昔親鸞上人がこの地に立ち寄られたとき、大根を焚いて差し上げたところ大変喜ばれた、と言うことに由来しています。

親鸞上人より食い気、撮り気が先のこの爺は早速釜場へ向かいます。

薪の竈に乗った大鍋からはモウモウと湯気が噴き上げます。



「撮りますか」と、
気さくに蓋を開けて見せて下さいました。

未だ炊き始めの白い大根がいっぱい。
二日目の午後なのに、
まだまだ仕込みが続いています。


厚かましくも調理場の奥まで立ち入りました。

そこにお狐さん専用のお釜があるのです。

此処でも係りのおばさんが、
「どうぞ、どうぞ」と
言って下さいました。

この上は全部撮らして貰おうと、
お台所の奥深くまで入らせて頂きました。

こんどは
”おとき”つまりご飯ものの方です。

写真は大根葉のお浸しと沢庵。

これと混ぜご飯が”おとき”として出されます。

因みにこちらは1500円
だいこ焚きは800円

これが最終段階のおなべです。
お台所の土間に三台あります。

調理された大根とお揚げが合体して焚きこまれ、
此処から皆さんの前に運ばれます。



そしてお台所の裏手ではご飯焚きです。

こちらもこの大きさのお鍋が五つ六つあって、
どんどん焚かれていました。
入って居るのは人参と・・・(食べなかったので、未確認!)


庫裏の畳の方から土間を見ています。
さっきのお鍋がそこの土間にあり、どんどん盛りつけられて運ばれます。

その他に
外では湯沸かし場と洗い場が大忙し、
大車輪で活動しています。

お土産用のおときも用意されて、
並んでいます。

去年と一つだけ変わったことがありました。

写真の空き樽を担いでいる人です。

つまり今は二日目の午後三時、
終わり近くに来たので、
輪切りにした大根を詰め込んだ大樽の大軍が、もう見あたりません。

さすがにもう全部が最終工程に入って居るのでしょう。


・・・所がお客〜参詣者は未だどんどんやってきます。

去年の釈迦堂了徳寺・たべる了徳寺・つくるです。
今年の覚勝院三宝寺釈迦堂です。
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2007年12月 5日 (水)

07紅葉:三宝寺の妙見さん


妙見さんへの道は一本道の緩い階段です。

途中には沢山の神様仏様がいらっしゃいました。

一番始めのこちらは千体仏釈迦堂で、
六尺座像の釈迦を中心に、千体のお釈迦様立像が囲みます。

全て開山日護上人の製作で、子授けの霊験があるとのことです。

鐘突き堂がありました。

此処までは東を向いて登り、此処で直角に向きを変えて北へ真っ直ぐ登ります。

鐘は本山本法寺から譲られた鍋かむり上人日親作の名鐘とか。

日親上人は室町時代の方で、今風に言えば原理主義的立場をとられ、
足利将軍家を改宗させようとして拷問され、
焼けた鍋を頭に被せられたが、
そのまま説法を続けられた、と云うお方です。

今度は三十番神堂。

毎日交替に国と人を守護する日本を代表する神々三十柱を祀ります。

賀茂大明神のみは開山に夢告があって二体居られるとか。

差し掛かる紅葉が、今盛りです。


此の後も三面大黒天や、その眷属の最上稲荷、
浄業菩薩堂などが点在します。

戌の妙見さんですからこのような奉納もあります。
ワンコの母子です。

縁結びの塔とありますが、豊臣秀頼、母淀君、長男国松丸の供養塔です。
大阪落城に際して討死した武将氏家行広の息女が菊亭家に嫁いで居るので、その縁であろうと言われています。


登り着いた正面が妙見堂です。

ここは絵馬もワンチャンでした。

灯籠には達磨さん。

これも願掛けの奉納でしょう。

参拝を植えて下ります。

右手の建物は三面大黒さん。

鐘突き堂を廻って本堂の方へ。

ご祈祷と太鼓の音が聞こえます。



門の所まで戻りました。

子供達や家族連れが散り紅葉を集めています。



なおこちらには菊亭家から来た御車返しの桜があるようですが、代替わりして若木のように見えました。
その他前庭には樹齢700年という揚梅の巨木がありました。

いずれにしても美しく味わい深いところです。


今までのだいこ焚きです。
釈迦堂了徳寺覚勝院

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2007年12月 4日 (火)

三宝寺のだいこ焚き


此のお寺のご縁起ですが、
江戸初期の寛永五年(1628)に後水尾天皇の内示を受け、
右大臣菊亭経季卿らが日護上人を迎えて開山とされたもので、
摂関家に次ぐ格式の菊亭家にゆかりの諸々があります。

中風封じのだいこ焚きは、十二月第一日曜にある宗祖報恩御会式法要の行事で、
前日の今日も報恩祈祷会として行われています。



本堂からは読経の声が聞こえます。
玄関前には受付があって、お土産用のだいこ焚きと、もうひとつの名物の柚ご飯を売っています。

玄関を上がって、此処で食券を求めます。

柚ご飯とだいこ焚きのセットは1500円。
だいこ焚きは800円

それから本堂へ招じられて、
厄除け法要に加えて頂き、お祓いを受けます。

お上人以下三名のお坊さんで、
日蓮宗ですから、お経も所作も賑やかです。

終わってお座敷に入り、一同にだいこ焚きが配られます。

だいこ焚きだけの場合は普通のお椀ですが、柚ご飯とのセットはこうした二段重ねの器でした。
大根は良く焚けていてお味は濃いめ。
セットの場合は中位のが三個にお揚げ、揚げは嵯峨豆腐だそうですが、いずれも美味しく、現在まで食べ比べでは一、二を争いましょう。

仏壇のあるお座敷に並んで座っていただきます。
これは半分くらいの人が食べ終わって席を立った状況です。

外へ出ました。
庫裏の脇に圧力釜(?)が並んで焚いています。
釜の数も多いので良く焚けて味が染みている理由が判りました。

こちらは容器入り(100円高)のお土産用。
因みに抹香臭いのは厭だが、大根だけは食べたい方には、この前にも席が用意されています。
(食べるオンリーはこっちをご推奨)

こちらは茶道宗徧流の祖、山田宗徧ゆかりの地で、此の山内に住し四方庵と称しました。
この人は赤穂浪士討ち入りに際し、吉良邸での茶会の日取りを教えた、という事で有名です。

ところでこのお寺にはもうひとつ、
裏の山に有名な妙見宮があると言うことです。

妙見さんはこの階段を登るようです。

沢山の人が上へ向かっていました。

登りに戌(いぬい)妙見大菩薩とありますが、
これは洛陽十二支妙見の内の戌の方角の妙見様だからだそうです。

鳥居があって、大菩薩とは、少々混ぐらがりますが、
鳥居を潜って、
紅葉の階段を上ります。



今までのだいこ焚きです。
釈迦堂了徳寺覚勝院

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2007年12月 3日 (月)

日蓮宗のだいこ焚き:三宝寺へ


福王子神社です。 
右手方面が御室仁和寺から都心部へ、左へ行くと嵯峨野で、斜め左が周山街道です。
複雑な信号で、なかなか渡れません。


京都の西北寄り、仁和寺の向こうに福王子交差点というのがあります。
そこに鎮座される神社の名を取っているのですが、これが名うての交通の難所なのです。
基本的には六差路ですが、竜安寺、妙心寺、仁和寺方面から嵯峨野広沢の池大覚寺方面へ向かう道と、周山街道、高尾、周山を経て日本海まで繋がる幹線とが交差しています。
道幅は2車線やっとですから、紅葉の季節ともなれば大渋滞の大混雑です。
そんな訳で通り抜けることはあっても、歩いたことのない交差点でバスを降りました。
三宝寺と言うお寺で、だいこ焚きがあると聞いたからです。

昭和一桁は出された食い物は皆食べると言いますが、代用食(意味、判ります?)で育った人間は、大根を食わして貰えるところへ吸い寄せられるのです???
さて、その三宝寺ですが、確か中風封じの炮烙灸とか言うのがあるところだったかな、位の知識でしたが、場所は鳴滝の先、福王寺から周山街道をバスで一駅行った辺りの山の中だ、と言うことまでは判りました。

市バス福王子で降りて、神社の社頭から交差点を見ています。
手前左が都心〜仁和寺の道、正面が嵯峨野への道、狛犬さんの後ろに周山街道、南へ向かうと双が岡から丸太町、天神川筋です。

この神社も初めて、ちょっとお参りしていきました。
神前では七五三かなんか、ファミリーでのお参りでした。

さて、お寺ですが、なんか送迎バスがあると言うことで、石屋さんの前にその標識もありましたが、人は誰も居ません。
歩き出したら、こんなポスターが目に留まりました。
ガラスに周山街道の渋滞が映っています。

その渋滞の中に送迎バスが居ました。
お寺から福王子へお客を送る途中でしたが、渋滞のお陰で乗せて貰えました。福王子では狭い裏道を大回りして方向転換です。
左が神社で、そこに大勢待って居られます。
(石屋さん前の看板は大偽りでした)

助手席から見た周山街道です。
国道162号線、小浜93K京北24K高尾5K、往復とも渋滞です。

街道を逸れて山登りになりました。
マイクロバスが曲芸的な運転で登ります。 歩かなくて良かったです。


お寺です。
凄い紅葉が見えました。

降りた駐車場には、テント掛けのお店が四、五軒ありました。
業種商態に脈絡はなく、察するところ檀家の方が催しに協賛されて出されているのでしょう。


三宝寺の門前です。

ものものしい山門やなんかはありませんが、
その代わりに盛りの紅葉がお出迎えです。

門を潜ります。

こちらの裏山には有名な妙見宮があるらしく、
それに日蓮宗のお寺ですから、鳥居や注連縄などというものも、余り違和感無く混在しています。

入ったところの見返しです。

門前から裏山の妙見さんまで、
至る所の要所を占めた見事な紅葉が今盛りです。

ご信心のお方、及び私のような食い意地人間の他、
紅葉見物の方やカメラマンなども多く押し寄せていました。


今までのだいこ焚きです。
釈迦堂了徳寺覚勝院
此の後行っただいこ焚きです。
釈迦堂了徳寺です。
了徳寺・食べる に 福王寺神社についての追記があります、ご覧下さい。

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2007年11月28日 (水)

07紅葉:嵯峨直指庵


直指庵(じきしあん)は、開山の独照禅師が明の高僧隠元禅師を招じて、黄檗禅を学び、
黄檗宗の大寺院として栄えましたが、
その後禅師の墓堂を残すだけで廃絶しました。

幕末から明治の頃、
勤王の志厚かった近衛家の老女津崎村岡が再興して、浄土宗のお寺となり、
現在に至っています。

由緒もさることながら、
まさしく嵯峨野の奥、
その自然環境が人々を引きつけます。



茅葺きの門を潜ると紅葉が一杯の前庭があり、
緩い壇が登って僧堂、と言った感じの本堂に至ります。

此処には参詣者が書き残す”思いで草”というノートがあって、
殊に若い女性の気を曳いて、
既に5000冊を越えているそうです。

お堂内部から思い出草ノートを配したお庭の写真を撮りましたが、なぜかいけないような感じなので、掲載はしていません。

境内は広大です。

と、書くと実際の印象とは違います。

いわゆる境内、と言った整備された人工空間はなく、
全てが自然の山裾の景。
そこに小じんまりとした諸堂が点在しています。




水子地蔵さんの供養堂です。
おもちゃなどが供えられた中に、なぜか”ブラックジャック”とヘッセの”車輪の下”の文庫本がありました。

一段下に大きな茅葺きのお堂がありました。

道場、と言うことで、
琵琶湖の茅で葺かれているそうです。

山手の上の方に此のお堂があります。
中に開山の独照禅師の卵塔(おはか)が祀られています。
此の脇の紫陽花は、しなびては居ますが、去年も今年もこの時期に花がありました。

自然を満喫して仙境から俗界に戻ります。
入り口の茅葺き門です。

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去年の分

2007年11月27日 (火)

覚勝院より直指庵へ


覚勝院の門、全景です。
大勢の観光客が通り過ぎますが、だいこ焚きに関心を示す人は少ないです。
でも一定の割合で門を潜って行ってます。

だいこ焚きを頂いて、ついでにおにぎりも食べて、これから直指庵です。
直指庵は嵯峨野のお寺の中でも北の方、大覚寺から真北方向に10分ばかり行った山裾です。
実は紅葉は少し早すぎて、青紅葉が大半でした。
その模様は明日アップするとして、今日の所はそこへの道筋散景です。
(また、もってまわるんやな)
(くいのばしですわ)

畑の向こうに北嵯峨の山が連なります。
目指す直指庵は此の画面右に外れた辺りなんですが、向こうに見える山頂には嵯峨天皇の御陵があるはずです。
嵯峨天皇は平安時代の始まった頃、この地の風光を愛されて嵯峨離宮を営まれました。
その後が現在の大覚寺というわけです。
登ると良いのですが、石段登山だと言うことで諦めました。

道が細くなって山裾になりました。
去年此処は林だったんですが、開かれてどうやら椎茸の栽培が行われるような感じです。

更に進みます。
車一台通れる道筋の竹林に沿って、竹製品を扱うお土産屋さんがありました。この辺りに来ると、いわゆる観光地の雰囲気は無くなって、とても良い感じです。

柚です。
此の皮を刻んだものが大根に乗っていました。
独特の風味と香りがとても良く、一層の食欲をそそります。
因みに何カ所かでお土産用に売っていましたが、
有人販売所1、無人販売所1、自動販売機!1、いずれも2個100円でした。

直指庵の直ぐ近く、あるお宅の生け垣です。
巧まずして何とも見事な取り合わせ。

直指庵に着きました。

此処はもうドン詰まりの感がある奥まったところです。

紅葉もさることながら、此の後ろの竹林も見事です。

今年は少し早すぎました。

山裾ですが、総体に日陰の所ですから、遅いのかも知れません。

茅葺きの門の屋根越しに見た紅葉と孟宗竹。

大きな木の天辺は赤くなり始めていましたが、
下側の木は全くの青紅葉が殆どです。

本堂へ向かう光景。

この辺りは全て紅葉なので、
真っ盛りに出会えば、さぞ素晴らしい情景だろうと思いますが・・・。

お寺の中の風景はまた明日。

話が帰りの交通渋滞に飛びますが、
行きはよいよい帰りは怖い、で、
直指庵から戻ったのが3時頃、大覚寺の前は大混雑です。
これはバスの中から撮ったのですが、
此のバス、出発して直ぐ超大渋滞に突入して、
丸太町通までの間バス停一つ、信号が三つの1km強を3〜40分も掛かりました。
往きは3分かそこらの道のりを。
紅葉の季節の休日に、嵐山なんぞに行くもんじゃない・・・

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2007年11月26日 (月)

聖天さんのだいこ焚き:大覚寺覚勝院


寒くなってきました。
十二月に入るとあちこちのお寺で”だいこ焚き”の行事が行われます。
謂われは兎も角、寒い中であつあつの大根を頂くのも良いものです。
所が十一月の末にも大根焚きがあることを知りました。
場所は覚勝院、23日金曜日の休日と多分24日も。
甚だ曖昧な情報ですが、なぜか時間だけは10時から15時と判っています。

まず覚勝院って、どこ?

これはweb検索で直ぐ判りました。
大覚寺の塔頭でした。
「へぇ、大覚寺にも塔頭があるの?」
地図で見ると門前です。
丁度紅葉シーズンに入って、当ブログも紅葉で飯を食うか。ってとこです。
大覚寺まで行くんなら直指庵だな、去年は一番遅くに行って、散り紅葉は綺麗だったが、樹上にはほとんど無かったから、今年は早く行くか。
その程度の考えで家を出ました。
お昼ご飯はあの辺は高いしどうせ一杯だから、大根をおかずに、と思い、地下鉄の駅に出来たミニコンビニでおにぎりを買い込みました。
11時過ぎ四条烏丸。
10分ジャスト発車のバスに飛び乗ったのですが、がらがら。
臨時の高尾行きが居ましたが、これもがらがら。
(さんれんきゅうのしょにちとちがうんけ?)
(そやで)

のんびりと大覚寺終点に着きました。
大覚寺の通りの一番奥、正面東側の角に覚勝院はありました。

門の前にはなんとサンプルが!
だいこ焚き800円、お好みで他にお善哉とお薄が出されます。

紅葉が色づいた境内に入ります。

テントがあって台が並んでいます。

椅子はとっても可愛いいちっちゃなペンキ塗り。
言うまでもなく幼稚園児用、
と、思ったらこちらは幼稚園もやって居られました。

此処に座って、だいこ焚きを頂きます。

覚勝院は大覚寺の唯一の塔頭で、別格本山。
昔は此の門前通りに嵯峨御所に関連する塔頭や役所役宅が並んでいたのだそうです。

その中で最も御所に近い此のお寺は、摂関家の子弟が住職を務める院家の住坊でした。

此の高い格式のお寺は明治天皇がご誕生の折、加持祈祷をしたご縁で、本尊は天皇御一代の守護仏として信仰された、ということです。
それで当院では今も岩田帯が授与されます。

大根に呪いの文字が書かれてお供えです。
御真言というのでしょうか。

こちらの御本尊は歓喜天、聖天様です。
だから本日の催しは聖天様の大根供養。

しかしそのお姿は、
聖天の本地仏である
十一面観音なのだそうです。


さて肝心のだいこ焚きですが、
去年頂いた釈迦堂了徳寺に較べ、

先ず、盛りは良いです。
だいこが2個は同じですが、ボリュウーム的にはやや優ります。

お味の方はしっかり目、且つ炊き込み具合は充分で、従って食べ応えがあります。
狐に関しては優劣無し、但しこの辺りの特産の季節の味覚、柚の皮が刻んで入れられて、
薬味としてとてもよく利いています。





お鍋は一つ、と言うことはお客の絶対数は少ない目。
当然手が回って良く焚けていて・・・供給の段取りも良い。


やたら褒めますが、実は聖天さんに睨まれたらしいからです・・・。

丁度去年の秋、直指庵の紅葉を撮りに大覚寺に来た時、突然カメラが死にました。
白雲神社の湯立て神事で降りかかるお湯をものともせず写した罰が当たって浸水〜回路腐食〜断線したのです。

今回も新鋭機、さて、と幼稚園椅子に座って食べ始めた私の頭の上から ザブリッ と水が落ちてきました。
朝方の雨水がテントの上に溜まっていて、強風にあふられたテントが膨らんだ結果落ちてきたのです。
カメラだけが机の上で被害が無くて、半分外に居た私も鞄もずぶぬれです。
聖天さんの前で不遜な写し方をしていたことに対する警告だったんでしょう、
きっと。
おまけに御供養をおかずにして、おにぎりを食べていた・・・



   明日は此処を出て、直指庵に向かいます。

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2007年10月18日 (木)

春日神社祭礼:春日通


お祭りに来て神様詣でをしない、では話になりません。
その辺り私は割合律儀です。
西大路から一筋西が春日通或いは佐井通と言います。
そこを四条から少し上がった西側に神社がありました。
勿論春日通りは一杯の露店です。
親子連れや子供達が楽しそうに歩いている、いつものお祭り風景です。


拝殿は上賀茂神社の土屋と同じく床がありません。 地面から直接柱が立って居ます。
お祭りのフィナーレは此処を三回、鉾や神輿が回るところだそうですが、常でも夕方になる。
この日は巡幸のスケジュールが遅れていて、相当遅くなりそうでした。

神前です。
皆さん列を作ってお参りです。
私は勝手なもので列には並ばず、正面少し離れたところに立ってきちんと二礼二拍手一拝です。
鈴は鳴らしませんし、(お賽銭も上げません)
理屈1:神様もお忙しいのに「こっちむけ」と鈴を鳴らすのは失礼ちゃうか?
理屈2:10円か100円で願い事聞いて貰おうてのは厚かましすぎるんちゃう?

参拝を終えて出てきました。 最初の写真の正反対ビューです。
この辺り戦前のお家が多い感じで、前の二軒もなんてことはないが、懐かしい感じのあるお宅でした。

この頃見かけるおもちゃ?ですが、
どういう仕掛けか、未だ探求していません。
南京玉簾の道具とは仕組みは違うでしょうが、同じような性格のものみたいです。


お参りをして露店を眺め、喫茶店を探して一息入れて、4時過ぎ西の方から戻って来るのを待ちました。
今度は春日通りを南へ五条まで、西大路五条から上がって又西院で差し上げやるらしいのですが、とてもようおつきあいできません。
鉾差しの不完全燃焼分だけ撮って帰ろうと言うのが此の後の写真です。


四条春日通りにはジョーシン電気の京都基幹店があります。
その角を回る少年鼓笛隊。 山国勤王隊のスタイルです。

子供神輿の隊列です。

これもとても元気がいい。

春日通りを少し下がった辺りです。

お揃いの武者姿。

よく見ると実にうまいこと端折って鎧武者に仕立てています。

いい感じですが、兜の前立てだけは、些か省略しすぎみたい?

やってきました。

ジョーシンの角が丁度神前ですから、そこで差すかと思ったのですが、上を見たら電線だらけ。

「南へ下がった病院のところで差すで」
と教えて下さった方が居て、
それでは、と、そこへ行きました。

成る程その一画は電線がない。

わずか何十米ですが、鉾が立ちました。

病院の患者さんが大勢車椅子で見物でした。

そして御神輿です。
此処でもちゃんと担いでいます。
その点だけでも熱気溢れるお祭りでした。

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2007年10月17日 (水)

春日神社祭礼:御神輿


行列にいた巫女さん達。
大勢でしたが年齢層が幅広く、お姉さん株の人が盛んに妹分の世話を焼いていました。


西院の春日神社は有名な神社ですが、私はさっぱりご縁が無く〜地縁的に遠いせいでしょう〜今回が初めてで、おおよその所在地を下調べして出かけたくらいです。
そんなことでお祭りのスケジュールなど一切判らず、ただ夕刻神社へ帰ってきた御神輿が拝殿回りを三回廻るのが有名と言うことから、発御は12時半くらいと決め込んで、適当に神社に向かいました。
四条通りのバスに乗って西大路で降りるべく、1時過ぎに西大路四条、西院交差点に差し掛かりましたら、なんと向こうから隊列が来る、鉾が担がれている。
停留所に着くなり飛び降りて追っかけました。
(お断り:追っかけました、と言うのは修辞上の綾で、私は走って追いかけません。その体力がないからですが、アテナのお使い村の森の梟を名乗る以上、流れを読んで先回りして待ちかまえる、のがスタイルです)
行列は北から来て東へ曲がっていきました。 周囲にいた人達の情報を総合すると、御前通りまで東進してから引き返してくる。
既に大勢の人が交差点に陣取っています。
私も真似をして東南角の隅に占位します。
これは正解でして、東から戻ってきた行列は目の前を進み、御神輿は交差点で周回し差し上げます。
ただ鉾が立ったのは西南、阪急側の角で、交差点内を差して回りはするのですが、私の真ん前に提灯の固まりが立ってしまって見え難いし、前を通ってもくれない。
フラストレーションが溜まってしまい、遥か西の方へ行く隊列を追っかけて(これはほんとに追っかけた)へばってしまって喫茶店に入り、4時過ぎまた戻ってくるのを待とうと、その間に神社にお参りし・・・・以下明日。


西大路を南下してきて、四条を東へ曲がる御神輿です。
これは西組で、御神輿の名は”卯ノ鳥” 重量1.6トン。

四条通りを東へ向かうお祭の列。
先へ行くのは東組の御神輿”千木”で、重量は2トン。
台車は準備されていましたが、見た範囲では常に肩に担がれていました。

反転して西へ向かう隊列が私の前にやってきます。
これは東、西組の御神輿より前を進んでいる女神輿です。
これ又威勢がいいんです。

交差点内で差し上げがはじまります。
女神輿でもやるこたぁやるわよ。

本神輿の到来です。 六角形は西組神輿。

交差点を占拠して回り始めます。
これは屋根に千木が上がった東組神輿。

クリックして下さい、
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差しあげ! かきあげ!1

やっと先をゆく東組が交差点を出ます。

一渡り交差点を暴れ回った神輿は、順次に西へと向かいます。

神職や巫女さん達が続いて、やっと交通は回復ですが、四条通り西行きだけはそうはいきません。

私は少しだけ西へ御供です。
あちこちの提灯や御神酒札の前では盛んにかき揚げが行われます。
担ぎ手さんの数も多いし、とにかくエネルギッシュな御神輿です。
(因みに差し上げの対象は民主党ではなく、丁度御神輿の陰にある提灯ですからお間違いなきように)

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2007年10月16日 (火)

春日神社祭礼:前駆、鉾差し


春日神社のご祭礼、
毎年十月の第二土曜日曜にあるらしく、それは盛大なものでした。

前駆に鼓笛隊や子供神輿、そして剣鉾が四本差され、御神輿は女神輿を入れて三座です。

昼過ぎに四条春日通り上るのお宮から出て、
氏子町内を回り、夕刻神社に帰着します。

その際の拝殿回りが壮観らしいのですが、例によってスタミナ切れで退散しています。

此処は西大路四条、西院です。
阪急の駅はサイインですが、嵐電の駅はサイ。
嵐電の方が伝統的な言い方のようで、サイ=賽の河原の賽なんだそうで、詳しい謂われは知りませんが、それでサイインなのかも知れません。
初めから脱線ですが
(でんしゃのはなしにダッセンはないやろ)(すんまへん!)
西院春日神社はもちろん奈良の春日大社の流れ、藤原氏の氏神様ですから、王朝時代は勿論のこと公家社会では大いに重んじられたことでしょう。
等と一般論を書き連ねているのは、実ほ有名かつ大きなお宮さんにも関わらず、私自身がとんとご縁が無く、今回初めてのお参りで、しかも解説書や駒札のコピーのようなもの一切手元になし。
とにかく盛大なお祭りでしたので、とにかく目にし写したものを並べてご覧に入れることに致します。
今日は前駆列と剣鉾、明日はおみこし。 いずれも西大路四条交差点での撮影。
明後日は春日通りを下がる行列です。

錦の御旗としゃ熊の乗馬者二名が行き、
そのあとからは、
ピ〜ヒャラドンドン。
最初の出だしは全く時代祭です。

そして露払いには、
やっぱり猿田彦の神。(横)



鉾ですが、氏子町内に十数本あり、その鉾仲間中の十本が数年おきに交替で出る。
差し手はよそから来て貰って、町内の人がサポートする。
と、世話役経験者の方から聞きました。

今年は四本出たようです。

鉾の名前はよう調べませんでした。

この部分のデザインが名前になりますが、これは扇鉾?
ではありません、
と言うのは、私に話して下さった世話役経験者が扇鉾の方で、見せて頂いた数年前の写真はこれとは別のものでした。


鉾が立ちます。(上)

予備知識なしに行って、偶然一番晴の西大路四条で行列に会ったのはラッキーだったのですが、
鉾は目の前を担いで行かれ、
立ち上がって差されたのは、
向こうの端。




(ポリさんじゃま、
のいて!)
(こうむしっこうちゅうや!)

天下の西院交差点は交通途絶です。

鉾が四本立って差して回った後、
御神輿二基が進入して周回し、
何度も差し上げて気勢を上げますから、
東西南北とも幹線はストップ。

参加者も見物人も熱気に包まれて、
それは盛大なお祭りです。

こちらの鉾は、
とくに良く鉾先が撓うように思います。

差し手の動きに従って鉾先が、
ペコンペコン
と前後に揺れて、
日に当たって反射して、
振り回された鈴が
チンチンとなる。

これが鉾差しの醍醐味でしょうね。

差された鉾は何度も広場
〜じゃない、
交差点を周回します。

なのになんでか、
私の居る側には寄ってきません。

鉾が出る、
鉾を撮るのが目的で来たお祭りなのに!
う〜ん。




(しんじんがたらんのやで)

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今までにアップした、鉾の出たお祭です。
粟田神社
八大神社
嵯峨祭
今宮祭

2007年9月 7日 (金)

松尾大社八朔祭:獅子と蜘蛛


土蜘蛛の精。
出で被っている金襴の被衣、写真的には難物です。
(実はこの辺りからカメラが不調になって((土蜘蛛の祟り?))露光がおかしく、気を取られてシャッターチャンスも逃がしています)
  (いいわけのおおいやっちゃな)   (し〜っ)


こちらのお獅子は二頭立て、
今回デビューの新人チームとベテランチーム。
最初に新人チームが出て、ちゃんと素晴らしい倒立などを見せ、二組になっての並列倒立は見物です。
新人=新獅子〜退場の後は、ベテランの碁盤乗りですが、用意の碁盤は本碁盤の五段積み。
吃驚して期待していましたが、さすがに本日の処は三段乗り。
でも本碁盤ですから見た中では最大級の高さ、危険なことの無いように、無理な望は禁物です。

若い方のお獅子の登場です。

二頭連立の倒立。 どっちが新人か、此の写真では不分明。


碁盤乗りです。 
近寄って先ず瀬踏み(上)


見事に成功。
此の催しのピークですね。


さて一働きしたお獅子は休憩です(下)

演出としても寝込んでいるのですが、実際上も横から団扇で皆が風を送っていて、中味の方も一息ついています。

そこへ忍び寄る黒い、いや、金色の怪しき影



対決。(上)

糸を吐く機会を窺う土蜘蛛の精。


正体を現して、
糸を投げます。


糸は和紙で出来ていて、先端に小さい鉛が入っています。

その重みで飛んで広がりますが、
後でこれを拾って帰り、財布に入れておくとお金が貯まる
(と、言うこと)です。


獅子はトンボを切り、
逆立ちを繰り返して
戦って、
糸に絡まれて
もがきます。




その乱闘が何回か続くのですが、
(下)

結果は蜘蛛が負けて、退場です。


(肝心の写真が不作ですんません)



全てが無事終了し、
結願の阿弥陀打ちで本日の公演は終わります。

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2007年9月 6日 (木)

松尾大社八朔祭:嵯峨野六斉


女神輿の興奮が去って、
さてお目当ての
六斉念仏と、
改めて舞殿に向かいます。
ところが脇のテントに人だかり。
見たら六斉会の方々が身支度中でした。

六斉念仏はお盆前後を中心に行う行事ですから、ユニホーム?は夏の浴衣です。
でも
芸物などでは、
色んな扮装の、
色んなパフォーマンスが見られます。

六斉念仏には芸能六斉と念仏六斉というのがあり、後者が空也上人の始めた本来の宗教活動の流れを伝え、有名なのは西賀茂西方寺の念仏六斉で、これは五山送り火の夜舟形の点灯と連動して行われます。
ただ残念ながら此の不信心者は未だ拝見したことがありません。
前者はそれが大衆芸能化して、あちこちの村や郷でその技芸を競ったもののようで、もとネタは能、地唄、浄瑠璃、長唄など色んな物からとっていて、祇園囃子や狂言の土蜘蛛などもその流れでしょう。
従って演目にも大きくは定型があって、発願で始まり獅子と蜘蛛の絡み合いで終わるのが普通のようですが、その間同じ名前の演目でも内容は会によって少しずつ違い、それぞれが趣向を競ってきたようです。
現在は国の重要無形民俗文化財として、市内の十数団体が保存と公開をされています。
今回は嵯峨野六斉念仏保存会による松尾大社八朔祭での奉納公演です。

去年辺りからあちこち見せて頂いている内に、此のブログ内にこんなに六斉の頁が溜まりました、どうぞご覧下さい。
小山郷六斉  上御霊神社(H19)
千本六斉   千本閻魔堂(H19)
千本六斉   空也堂
中堂寺六斉  稲荷お旅所
小山郷六斎  上善寺
子供六斉  祇園祭綾傘鉾関連


発願。 の前の触れ太鼓ですかな?

猿回し、だと思います。

時雨、 若い人達の出番です。

八嶋、でしょうか。 カンカン太鼓の妙技です。
以上の演目、頂いた曲目紹介をなぞっていますが、ド素人につき間違いはご容赦下さい。
六斉念仏と言うのは手持ちの太鼓を持っての複数人の掛け合いですが、その妙技には魅せられるます。
只今の我々の知識では、ベースになっている古典大衆芸能や、古い民俗などに馴染みがないために、はっきり言って退屈する面もあるでしょう。
でも馴染んでいますと、さすがに伝統に裏打ちされたパフォーマンスです、だんだんに填ります。

四つ太鼓が始まりました。 概ね年齢順、この間の千本閻魔堂では、口切り役の子は三歳でした。

ベーシックな太鼓で全員交替して打ち、曲打ちもあります。

祇園囃子ですが、こちらのは賑やかです。 これは棒振り囃子ですが、はね回って凄く活動的でした。


更にお腹の大きいオカメさん、
ヒョットコ面の願人坊主?など、
次々登場です。


祇園囃子はどこでも定番の演目で、
山鉾巡行の夏のムードいっぱいですが、
それぞれの会で音色が違い、
かつメロデイの元になる鉾があるようですが、もはや似ても似つかぬものである、
と言うことらしいです。

越後獅子。 結構大きな振りの踊りです。
衣装も華やかで見物です。

さて、越後獅子の後は神楽獅子、そして土蜘蛛。
私などはこれを見るためにやってくるレベルですが、何遍見ても飽きません
あの蜘蛛が糸を投げるタイミング、実に上手く意表をついていて、シャッターチャンスを外されます。
その辺りは次回として、今日の最後の画面はその前奏曲の四枚囃子で終わります。

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2007年9月 5日 (水)

松尾大社八朔祭:女神輿



山吹の名所の流れの上に、
夏の花 
百日紅が一つ咲いていました。

日も高いこととて
御神灯に灯りは未だですが、
夕暮れとはまた違った風情です。









さて、
今や八朔祭のメインイベント?
化した
女神輿の登場です。




お目当ての嵯峨野六斉は午後4時頃からとのこと、
小1時間ほど早く着いて、
参道を二の鳥居の方へ向かったら、

なんと、なんと

向こうの方に御神輿が居る。

やまぶき会の女神輿です。


朝8時半に此処を出て、
12時前に大堰川を船で渡御、
1時頃野宮神社に着いて、
戻りは渡月橋を渡り、
帰ってきた処に出くわしました。

ギャル神輿などと言ったら、叱られる本格派で、
今神門の石段を登って帰着です。

メンバーは100人ほどとか、
京都だけでなく、全国から同好の女性が集まって来て、
今年で5年目と言うことです。

ご覧のように、
老若国籍不問、

但し性別のみ厳に差別あり。

御神輿は白木で、
今年新調されたとか、

清楚でとてもいい感じです。

そして長柄の回りは
まことに華やか、
まことに勇ましく、
独特の熱気に包まれます。

御神輿は最終ラップ。 でも、皆さん余りお疲れとは見えません。

舞殿〜拝殿の回りを、時計回りに廻って神前へ。

掛け声は「ワッショイ」でなく、「ホイット、ホイット」です。

舞殿には六斉奉納用の豆太鼓が並んでいました。

恙なく神前に到着しました。

ちいちゃな子も参加しています。 ママと一緒なのでしょう。


還幸された神様が、
いま御神輿を出られて、
ご本社の社殿にお戻りです。

たまたま行き会ったお陰で、結構な目の保養になりました。
ただし、朝から追っかけ回していたらしき、狒狒カメラマンも大勢いらっしゃいまして、
その方面も大賑わいでした。

(そ〜ゆうてめぇはなんなんゃ?)

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2007年9月 4日 (火)

松尾大社八朔祭:往来


桂川の堤防、
松尾橋西詰め南側です。

大きな木が
自然にすくすくと
伸びていました。

地面の直ぐ近くから枝が出ています。


松尾大社の八朔祭に行きました。
八朔とは旧暦の8月1日の事で、田の実りを祈願し、また”たのみの節”と言って、早稲の収穫を領主など頼みにする人に捧げた、と言った農業的な催しの日です。
松尾大社の八朔祭は9月の第1日曜日、今年は2日に行われたのですが、どうも飛んでもなく盛りだくさんの中身が詰まったお祭りです。
先ず前日の夜から万灯が灯されて、盆踊りなどがあり、当日は古来から続く相撲大会が終日行われて、これは国体の京都府代表選考会でもあり、また赤ちゃんを対象にした健康祈願の神事、赤ちゃん相撲などが行われます。
更に嵯峨野六斉会による六斉念仏の公演の他太鼓の奉納など、そして近年の呼び物は女神輿で、これは”やまぶき会”という名の言うなれば同好の士〜女子〜の集まりで今年で5年目、大堰川を船渡御し、野宮神社まで行って帰ってくるものです。
これもし全部おつきあいしたら、今月中のブログネタは心配ないでしょうが身が持ちません。
大それた事は考えずに、此の頃首をつっこんでいる六斉念仏を見に出かけました。
往復の見聞も入れて二、三日分かなと思っていたら、丁度女神輿が帰ってきて四日分、どうか飽きずにご覧になってくださいませ。

松尾橋を渡ります。 
これは松尾大社の真正面で、四条通りの西端です。
北側には愛宕山が聳え、送り火の鳥居形が見えます。

反対の下流側です。 本能寺へ向かう明智光秀が渡ったのは、もう少し下流かな?

橋を渡ったところに阪急嵐山線松尾の駅。

鳥居の前の道はこの辺りの幹線で、
踏切、橋と接して四条通に連なるという、交通が錯綜するところです。

左側が駅で、右手が嵐山側、
此処から嵐山までは単線です。

前の写真の大鳥居の根本。 未だ日は高いですが、提灯に西日が射して綺麗です。


3時過ぎに市バス3番松尾橋終点を降りて、此処までが往路です。
六斉念仏を見て帰り道、6時前の情景が以下になります。


日が西に傾いて、山裾のこの辺りでは夕暮れです。
正面に見える舞殿で公演がありました。



境内のせせらぎの周囲の山吹は有名です。

その辺り一面に献灯が連なって、
灯りが目に入る時刻になりました。










下の写真は
神門から二の鳥居の方を見たところ。


又橋を渡ります。
北の方、嵯峨野の北辺を区切る山並みで、西日が斜めに差してきました。

愛宕山には雲が懸かっています。
と言って、けっして高山ではありません。
標高924m、それでも比叡山よりは76m高く、京都盆地を囲む山々での最高峰です。
(そんなんやし、きょうとじんはけちなんやな)

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2007年8月30日 (木)

愛宕古道街道灯し:復り


念仏寺を出て下の道に戻ります。

この頃は貸し自転車で来る観光客も、
多いのでしょう。

街道灯しの灯りと並んで結構賑やかです。


あかりのひとつ、

篭の出来や絵の具合、
それに置かれた場所の回りの具合など、

とてもチャーミングなのですが、

ひょっとしたら去年も写してた?

その列びの灯りですが、このお家も素晴らしいお家です。
いわゆる町屋とは違う農家ですが、造り、構え、いずれをとっても劣りません。

眉毛のながぁ〜い達磨さん。
時々見ますが、どんな謂われかな。

日は沈みきって、天空光もなくなりました。
ノーストロボ、ノー三脚の限界です。

ところで通りはこんな賑わいです。
8時近くで、丁度今がピークなんでしょう。

(これ、
ストーカーこうい
ちゃうか?)


(すんまへん、

でもやはりこのばは
わそうびじんでっせ)

分かれ道のお地蔵さんのところまで戻りました。 
もう真っ暗です。

亀さんと龍さん・・・でしょう。 
力作です。

清涼寺の方へは行かずに大覚寺の方へ曲がります。
途中の畑?広場?にはご覧の灯りのオンパレードがありました。

月が綺麗です。

もうすぐ満月、
そして皆既月食があるそうです。


今回の古道探訪は此処までで、
お地蔵さんの所の進入禁止で客を降ろしたタクシーが、
こっちへ廻ってくるのを拾って嵐電嵐山へ戻ります。

(1メーター580円でした)

嵐電嵐山駅名物の足湯、8時過ぎて閉店でした。
これに入り損ねたのは良いとして、此の後帷子辻ですれ違ったのは妖怪電車、
もう一本遅かったら乗れたのに・・・
(こどもゃなぁ)
(じゅんしんなんや)

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2007年8月29日 (水)

愛宕古道街道灯し:化野


化野念仏寺の登り坂です。
今宵は一方通行、南側からあがって北側へ降ります。


化野(アダシノ)念仏寺、都の三つの野、の一つ。
北は蓮台野、東は鳥辺野
いずれもそれと知って読めば相応しいネーミングです。
これらの野は首都の庶民の葬送地、但し火葬ではなく土葬ないしは風葬〜つまりは死体遺棄。
明治以降この辺り一帯に散らばっていた無縁仏の彫像や塔婆を此のお寺に集めて供養したのが此の行事の始まりで、ムードある観光ポイントとして今日全国版の趣です。
実際に蝋燭の灯りが揺らぎ読経の声がこだまする敬虔な雰囲気ですが、些か人が多すぎます。
何でも一昨年までは1000人限定予約制だったのが、去年からフリーになりました。
聞いた話では予約客が1000人集まらなくなったからだ、と言うことでしたが、さて?

受付を通ると、
目の前に賽の河原
と称される
低い石垣に囲まれた、
正方形の一画が広がります。

石垣の上には石塔が並び、
内側には中央の十三重塔を囲んで、無数の古い石仏が置かれています。
人々は蝋燭を手にしてその間を巡り、
献灯していきます。


その雰囲気を
映像でどうぞ。
















木の間越しに月が出ています。
写真はこの賽の河原と称される中では禁止です。

ストロボを焚く馬鹿もいますが、大多数の人は発光停止。
当然露出の決定は大変難しい被写体ですが、
今回新発見。
ずばり
「下手な考え休むに似たり」で、露光はカメラ任せがベスト。
オート乃至プログラムにして、結果を見ながら露光補正するのが一番”歩留まり”と”結果”の良いやり方でした。

注:当夜は1000円お納めし、献灯用の蝋燭が一本手渡されます。

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2007年8月28日 (火)

愛宕古道街道灯し:往き

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嵯峨釈迦堂、清涼寺の門前に立つ道しるべです。

これより愛宕山への参道が始まります。

愛宕古道街道灯し、
これはアタゴフルミチカイドウトモシと読むようです。

去年始めて寄せて頂きましたが、残暑厳しい頃の夕刻、幾らかの涼感を伴って、季節の移り変わりも感じさせるまことにゆかしい行事です。
場所は愛宕神社への古い参道、つまり嵯峨釈迦堂清涼寺辺りから愛宕山頂の火の神様秋葉明神までお参りする街道で、沿道に各種手作りの行灯を並べ、日時は途中にある観光の大スポット、化野念仏寺の千灯供養にあわせて、8月23、24日夕刻から行われるものです。
  〔06年版   夏宵  化野  鳥居本  灯り
07年版は基本的には同じで、今回は化野から先がありません。
6時半頃釈迦堂から歩き出して念仏寺に至り、そこから引き返した経路に沿ってご案内いたしましょう。

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ゆうぐれ、

清涼寺山門を過ぎたところの一番手、
愛宕古道街道灯しのインデックスになる灯りでしょう。

おおむねは此の形態が多いのですが、
これは最初は嵯峨美大の学生が此の催しのために創り出したもの、
竹を素直にシンプルに使った造形です。
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灯りは清涼寺土塀沿いに始まります。
そこに居たのは焙り餅茶屋の看板娘、入り口はもう閉まっていました。
ちなみに今宮神社の二軒の味比べは甲乙付けがたく、違いは続けて食べねば判りませんが、此処のは少し違っています。
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前の続きになりますが、道が曲がって北へ向かいます。
そのコーナーにある門は、紅葉と楠木正行の寶篋院(ホウキョウイン)
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民家の軒先にそれぞれ灯りが点されます。
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路傍のお地蔵さんですが、とても風情があります。

横に駒札が立っていて、そこには小倉山と百人一首の由縁が書かれています。
そして
この先に厭離庵があって、ここが小倉百人一首編纂地の候補の一つです。
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お店の前には一段と大きな灯りがともります。
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辻を廻ったところに
何やら変わったものが・・

どうやら観音様らしく、
等身大で彩色です。

作者の方でしょうか、

盛んに解説をしてライトを当て、
写真を撮って居られました。
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車は此処まで。
お巡りさんが立っていて、この先化野念仏寺方面は歩行者のみ。
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沢山の灯りが並んでいます。
この辺りのお土産として垢抜けした繭人形の繭村さん。
此の催しにも力を入れて居られるようです。
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念仏寺に近く、
立派な土蔵と街道灯し、

そして僅かな残照。


この辺り古都保存法で町並み保存、
昔からの豪農のお家が多く、
ただの田舎ではありません。

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2007年7月28日 (土)

法金剛院夏/蓮


五位山法金剛院

丸太町通りに面していて、
向かい側を山陰本線、
今の言い方ではJR嵯峨野線が走っていますから、
嵐山方面に行かれる時、前を通った方も多いはず。

由緒などはこちらの6月の分をご参照頂くとして、
今回は、蓮です。

此のお寺は関西花の寺云々という看板を掲げて居られるだけあって、四季の花が絶えません。
背景の五位山、双岡(ナラビガオカ)から流れ出た支脈ですが、を前にして蓮池が広がり、沢山の蓮鉢が並んでいます。
そろそろピークか、と訪れました。

・・・迄は上出来でしたが、朝寝坊というズボラが入りました。
お寺に着いたのは10時近く。
行ってみると、今月中は朝7時から開門されています。
当たり前の話で、蓮は夜明けとともに「ポンッ」と音を立てて花開き、昼前には萎む〜〜これジョーシキ〜〜
・・と云う話を聞いたことがあるのですが、実は未だ腑に落ちては居ません。
それは兎も角、10時前に行ったのでは確かに遅すぎて、結果は斯くの如くです。


今は往時のような七堂伽藍はありませんが、お堂の前の蓮池は広大です。
夏の日を受けて一杯に葉を伸ばしていました。


池の回りには沢山の蓮の鉢があって、
紅白の花が咲いています。

多分色々な種類があるのでしょうが、
特に札などはありません。

こちらも特に知識はないので、
見た目だけでの撮影です。


確かに開きすぎた花が多いように感じます。

ちゃんと写す意志があるなれば、
朝7時開門と同時に入らせて貰うべきでしょう。

と、口先だけ立派です。


尤もお寺のことですし、
今の季節、7時開門なら遅いほう、
と云う意見もあるかも知れません。


トンボと蓮の花。

私は蓮の花にもトンボにも、
この頃はとんとご縁がありません。

なのに此の両者に出会ったのは、去年の8月
くろ谷さんの西雲院へ、やはり蓮の鉢を撮りに行った時のことでした。

トンボは特に蓮の花が好きなのでしょうか。

はっきり言えるのは、
二度とも幾らアップに寄っても、トンボ君は逃げないで、じっとしていた、と云うことです。


梅雨は明け、日は高く昇り、猛烈に暑くなってきました。
夏本番です。
でもこちらには大勢の客が押し寄せています。
そのきわまりがこれ、バスツアーの団体さん。

こちらのお寺にはいい仏さんが居られて、後ろの宝物殿で拝みます。
その前のお堂が今日は開いていて、蓮の写真展らしいことをやって居られるので、帰りに寄ろうと思っていたらお堂一杯の人。
なんかますます暑くなりました。



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2007年6月15日 (金)

法金剛院・紫陽花


紫陽花に熊蜂が訪れていました。
熊蜂は見るからに怖そうですが、雀蜂のような凶暴さはないようです。


法金剛院の続編です。
今度行った、今、の花はやはり紫陽花でした。
これも各種の紫陽花が植えられていますが、ラベルがないとお手上げのシロウトには、違いが判っても説明ができません。
だが何れにしても花は花、綺麗な花をご鑑賞下さい。


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 #6

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2007年6月14日 (木)

法金剛院・庭園


沙羅双樹、今の季節の花ですし、お寺のお好きな花でもあります。
そして綺麗です。
花の寺、法金剛院門前にもありました。



双岡(ナラビガオカ)の東にある法金剛院へ行きました。
花の寺として有名で、この冬門前を通りかかり、拝観してきました。
これは季節には是非、とおもって伺ったのです。

このお寺は律宗、つまり南都唐招提寺の流れですが、大変由緒のお寺です。
この場所は御室仁和寺の南に突きだした三つの峯からなる双岡の東南で、小さな支脈の先にあります。
この少し高い部分は五位山と言い、830年右大臣清原夏野が山荘を営んで花を植え、死後双丘寺と称したこの地を愛された仁明天皇が御幸の折、山に五位の位を与えられたもので、これは当寺の山号にもなりました。
時移って平安時代の末、鳥羽天皇の中宮待賢門院が復興されて法金剛院とされ、五位山を含む一帯に池泉堂塔が立ち並んで、浄土さながらの景観を呈しました。
そこで起こった諸々のこと、北面の武士佐藤義清が待賢門院の美貌を思慕して何が起こったのか、またそもそも待賢門院とはどう云うお方なのか、佐藤義清とは何者か、この法金剛院での蹴鞠馬競、和歌の会。目下朝日新聞朝刊に夢枕獏さん連載中。
(下手すると、清明神社の二の舞で修学旅行生のメッカになるやも知れず、何しろ近所には映画村もあり)

(だっせんするな!)


現在の法金剛院は、
重文の阿弥陀如来を御本尊に、
多数の重文を擁しておられて、
その収蔵された仏堂の他は、二三の殿舎があるだけですが、
大きな池を中心に四季の花木を植えて、
ことに桜、蓮、花菖蒲と紫陽花、紅葉が有名です。
その一画には、
創建当時のままの瀧の石組みも残っています。

入ったところで目についたのはこの時計草。

これは
ジャーマンアイリスと言うんでしょうか。

派手な花菖蒲が、
色とりどりに、
池の畔にも、
石畳の縁の鉢にも
並んでおりました。

木造のお堂が二つ、
御本尊などの諸仏は、
右手のお堂に上がらせて頂いて、
その裏に廻ったところに建つ
コンクリートの仏殿にお座りです。

定朝風の丈六阿弥陀御本尊を始め、
十一面観音菩薩など、
ゆっくりと拝観する事ができます。

これがその裏に回ったところ、
ことに手入れが行き届いた紫陽花たちでした。

お庭の北より、五位山の裾にはお地蔵さんが並んでいました。

お地蔵さんより奥の方、
お庭の北東の隅に
五位山から流れ出る
青女(セイニョ)の瀧、
と言う巨石の石組みがありました。

最近になって発掘、再発見されたものですが、実に900年前、
このお庭の創建当時のままなのです。

そして施主が待賢門院、
作者は僧林賢と静意という、史実のハッキリした貴重な遺構です。


大きな池には一面に蓮の葉が・・

夏にはさぞ一面の蓮の花、
極楽浄土を出現させることでしょう。

回りの通路には至る所に水盤が置かれ、
蓮の葉が伸びています。

七月始めから八月に掛けて、
世界中から集めたという、
この花花が咲き乱れるはずです。

池の対岸に廻りました。
一面の蓮です。

池の端には小さな州浜があって、その付近には鯉たちが集まってきます。

池の畔に咲く各種各様の花菖蒲たち。

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2007年5月 2日 (水)

梅宮大社:庭園の花


梅宮大社楼門

ついこの間狂言を見に行ってドジを踏みました。
閻魔堂狂言を閻魔堂へ行って、実は鉾参通りの催しでした。
今度は六斉念仏を見に行ってまたまたドジです。
29日の晩、八条口近くの
お稲荷さんのお旅所で中堂寺六斉会の奉納がある。
それへ行く前に一寸梅宮大社に寄ってみよう。
此処は行った事が無く、このあいだのyumeさんのブログによると花盛りらしい。
それは其の通りでした。
広い神苑に色々な花が咲いていました。
順当に行けばすぐ隣にあって、今盛りの筈の松尾大社の山吹を、と言うところを八条口へ。
東洋亭で夕食をしてお旅へ行ったら、狂言堂は閉まっています。
張り紙があって30日公演。
一人、何時も29日なのに、と文句を言っていた人が居ましたが、仕方なく退散。
家へ帰って予定表を見たら、ちゃんと30日と書いてある!
すっかり元気を無くして、今現在30日午後、晴天ですが、多分行かないでしょう。

と言うことで、一応梅宮さんの花々を・・

こちらの庭園はご本殿を取り囲んで左右と後方に広がります。
東側に入り口があり、社務所で入場券500円を求めて入ります。
これは入った真正面の光景です。

桂川が近いせいか、水鳥が沢山遊んでいます。

中の島の茶席の回りから池の向こうの方へは、躑躅の群が真っ赤です。

こちらはお酒と安産の神様で、その昔は橘氏の氏神でした。
源平籐橘と言って、勢力のある氏姓の代名詞ですが、どうもあまり知った人は居ません。
僅かに橘諸兄(タチバナノモロエ)と言う人の名を聞いたことがあるくらいですが、こちらは其のお母さんが創建されたのだそうです。


写真は何れが菖蒲杜若ですが、其のイチハツ系のものも沢山生えています。

今頃ですが、実は此のお庭で一番盛んな花は桜でした。
沢山あって皆花つきがよく、見事ですが、花柄の長い八重桜で、皆同一種のようでした。

奇妙なものですがこれはアメリカ花水木の開き掛けです。

藤棚もありました。
上鳥羽の水道局の施設が素晴らしいらしいですが、どうも足の便が・・・

そろそろ紫陽花も咲く季節になりますか。

シャガという花は北山杉の下にびっしり咲いていたりして、やや陰性な感じもありますが、よく見ると随分派手な花です。

霧島系でしょうか、池の周囲には真っ赤で大きな木がびっしりと連なっていました。

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2007年4月30日 (月)

御室八十八カ所/終点


8番札所から横へ抜けると此の池に出ました。

横道がある、そして池がある、と言うことは未だ”山”へは入らず、”里”の範囲にいると言うことでしょう。
池の畔には花の散った桜が並んでいて、その他の花木も多く、綺麗なところです。

池には中の島があって、
ちゃんと弁天様がおいでです。

さらに近くには幾つかの小堂があり、
池泉のある庭園の向こう側には、
他より一回り大きなお寺の屋根が見えました。

それが八十八番、結願の大窪寺でした。
山の中腹まで上がって降りて此処へ帰ってくるのです。

其の脇を抜けて、
札所巡りの端末になるお堂のある道の方へ行きました。

山の渓流が流れ込んでシャガの花が咲いています。

此の流れは石の反り橋があり、杜若の植わった園池を通って、
初めに見た弁天池に連なっていました。

そして名残の桜がチラホラと、

此のお堂は八十七番か、
六番でしょう。

初めの弁天池の畔に戻りました。
一面の緑、
もう此の辺りは新緑の世界です。

此の一郭から表の道に出るところにあった石碑です。

此北西 胎蔵界
と書いてあるのでしょうか。

八十八カ所霊場巡りの世界である、
と言うことを、多分意味しているのでしょう。

公道へ出ました。
丁度仁和寺の北西角です。

仁和寺の北側、
長く続く塀の外です。

南側は皆さんご承知ですが、
此の景色は余り目にされることはないでしょう。

北側は府立の
立派な聾学校です。


丁度4時近く、日も西に回りました。
此の道を通って真っ直ぐ東へ、竜安寺を目指しました。
(これ以降、先日アップの竜安寺へと続きます)

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2007年4月29日 (日)

御室八十八カ所巡り/1〜8






御室仁和寺の西北側から出発して、
背後の山を一周してくる八十八カ所巡りの
コース全体像です。

嵐電や仁和寺との
位置関係が掴めると思います。
(嵐電高雄口駅は、最近宇多野に改められました)




地図は二段階に大きくなりますから、
クリックして下さい。


御室成就山八十八カ所巡り

と言うのが、仁和寺の裏山にあります。
四国八十八箇所巡りが今ほど簡単でなく、行きたくても行けない人が多かった時代に、 御室仁和寺の門跡済仁法親王が発願されて、文政10年(1827)寺侍の久富遠江守が四国に渡って各霊場の砂を持ち帰り88のお堂に埋めたのが始まりです。
全長3�ほどで約2時間、日常散歩のコースにしておられる方もあるとは聞きましたが、今や全く足に自信を無くした小生は、毎月8カ所ずつ一年掛けて廻ることを”発願”(うそつけ!)したのです。

考えてみたら不合理な話で、山を登って降りて一本道を巡るのですから、一番高いところへ行った月は、お参りは8カ所でも実質全コース廻ることになり、しかも今からやると夏の盛りに巡ってくる・・・

まあ、これらは皆夢想の段階として、とにかく覗きに行きました。
出だしの一番が結構見つけにくいのですが、おおよその見当が当たって無事スタート、お堂は次々に現れて、それぞれ御本尊と弘法大師を祭り、寺号があります。
8番まではすぐで、全く登ったとは言えず、横へ抜けたら88番の前に出ます。

かくして頭と尻尾を廻りましたので、
ひょっとしたら此でキセルをやり、
もうお仕舞いなのかも知れません。

でも発願??は桜の季節、
一番札所の桜は綺麗でした。


まぁ、
とにかく映像を並べましょう。


仁和寺の西門を出て真っ直ぐ100mの所、と案内にありますが、住宅地の中を抜けて小さい川を渡った処に一番札所、釈迦如来を御本尊とする霊山寺があります。

御大師様の像があって、出発です。

道は多少荒れていますが、
普通の足拵えで十分です。


すぐ二番札所が見えてきます。
阿弥陀如来を御本尊とする極楽寺。

少し下がって三番金泉寺。

向こうにはもう四番が見えています。

四番札所。

御本尊は大日如来です。

四番の前をゆっくり登る杉木立の中、

五番目の勝軍地蔵菩薩、地蔵寺が、
真正面に見えています。

地蔵寺を右に折れて緩い坂が続きます。
薬師如来の安楽寺を通り過ぎて振り返ったところです。

この辺り一面は深い杉林です。
その中に点々とお堂が連なります。
七番、阿弥陀如来の十楽寺です。

八番まで来ました。
来ました、と言うほどの距離ではありません。
千手観世音菩薩の熊谷寺。
そして此の横に脇道があって、お寺の屋根が見えています。
それが満願の88番に違いない、と見当付けて脇に逸れました。


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2007年3月27日 (火)

蚕ノ社:三本足の鳥居



京福電鉄、つまり京都福井電気鉄道ですが、
これは京都から福井まで電車を走らせようと云う、壮大な計画の元に・・・
というのは全くの大嘘でして、
京都と福井に路線があるローカル鉄道です。
昔は今の叡山電車(えいでん)も同じ会社だったと思いますが、これは京阪の傘下に入り、その先の比叡山ケーブルが残りました。
京都バスもグループ会社になりますから、少なくとも京都では安定し、かつ重要な市民の足と言えましょう。

其の京都嵐山線が、この間名前を変えて、愛称であり略称である”嵐電”(らんでん)が正式名になりました。
そして幾つかの駅名も、主として観光客にわかりやすいよう改名しました。

ただ此の沿線は、太秦(うづまさ)〜映画村のお陰で読み方も全国版になったかも知れませんが)〜のように、難解地名も多いところです。
これは此の盆地が開け始めた頃、保津川を改修して大堰を設けた川とし、稲作を広め産業振興した秦氏が、渡来系であったためと言われています。

そこで表題の蚕ノ社(カイコノヤシロ)ですが、これは同名の駅下車。
秦氏の養蚕などと関係があるお名前で、広隆寺や映画村の東南辺り、一言で云えば端っこのごちゃごちゃした田舎にあるお宮さん。
そして此処の見物が日本唯一、三本足の鳥居。

以上が私として持っていた全情報で、一寸したきっかけで初めてお参りをしたのです。

驚きました。
大変なところ、相当なところでした。

蚕ノ社は正しく蚕の神様で、養蚕神社といいましたが、
これは実は摂社でして、
本宮は木嶋坐天照御魂神社(コノシマイマスアマテルミタマ)と言い、
御祭神は天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)以下四柱。

”天地の肇の時、高天原になりませる神の御名は,先ず天御中主神、次に高御産神、次に神御産神・・・・、 ”
これは古事記の書き出しです、(アホのひとつおぼえ)
つまり此の神様が万物の根元、天照大神などは、これより大分後に出てきます。
要するに日本神話に於ける最高神のお社なのでした!。

一の鳥居です

参道は真っ直ぐ北に延び、
背後には鬱蒼とした杜がありました。

此の杜は”元糾森(モトタダスノモリ)と言い、
中に元糾池という神池があります。
何が元なのかと云うと、嵯峨天皇の頃下鴨に移されたので、と言うことから来ています。

ご本殿になります。
創建は何時のことか判りませんが、続日本記には記載があり、思いっきり古いことは確かです。
但し神明造りの現社殿は明治以降のものです。

ご本殿玉垣内の東側に此のお社があります。
これが養蚕神社、蚕ノ社です。
雄略天皇の頃、呉から秦氏が来日し、漢織呉織の技を広めた。
推古天皇の頃、その故を以て勧請したのが此の社である。
とのことです。

そしてこれが、
三つの柱を持つ鳥居。

ご本殿脇から望めますが、
木々が邪魔をしてもう一つよく判りません。
神池の方へ降りました。
何故か水がありません。
多分滾々といて絶えることがなかったのでしょうが、
何故か乾いています。

本来は此の中心が御祭神の依り代であって、それを四方から拝む方法として此の鳥居が出来たのでしょう。

そして神の池は普段は人を寄せ付けず、特別な時に其の流れに足を浸すことで、お祓いを受ける、と言ったものなのでしょう。

水が無くなったので、
神聖な場所に寄りつけないよう、
今は柵が出来て居ます。

鳥居のある神池からは水が流れ出て、
禊ぎ場のようなものが造られていました。

三つの鳥居を組み合わせた傘の部分のアップです。
この特異な形は、遙か古代の景教(中国へ伝わったキリスト教)の影響である、という説もあるらしいです。

禊ぎ場の枯れた沢の中に立って、境内の方を見返した景色です。

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2007年3月26日 (月)

嵯峨狂言:土蜘蛛070315

土蜘蛛は何と言っても、あの蜘蛛の糸が、パア〜ッと飛んで、観衆がどよめく、あれに尽きると思います。
そのせいかよく演じられるので、母屋のHP分と、閻魔堂狂言を含め、私も既に三回目です。
あの蜘蛛の糸の先に仕込まれた鉛の重りを拾って財布に入れると金運が付くそうですが、私の場合は??
(なかったらもっとびんぼうしてんにゃ!)

今回は筋だけ追いました。
蜘蛛の糸の広がる華麗さは、前にアップしました水上の嵯峨狂言でご覧下さい。


源頼光は出仕してきた家来の渡邊綱、平井保昌に杯を与えます。

頼光は加減が悪く、寝込みます。
実は土蜘蛛の祟りですが、家来達は頼光の身の回りを確かめた上で引き下がります。

橋掛かりから土蜘蛛登場。

土蜘蛛は頼光を襲い、頼光は刀を抜いて応戦しますが、蜘蛛の糸に絡められます。

騒ぎを聞きつけて綱と保昌が駆けつけます。
頼光は蜘蛛退治を命じます。

襷掛けで股立ちをとり、松明を翳して地下世界を探索する二人。

二人が離ればなれになったとき、綱に蜘蛛が襲いかかります。

乱闘の末、逃げた蜘蛛を追って奈落に飛び込む綱。

昌は松明を無くして暗闇の中をさまよいます。

蜘蛛と保昌の立ち回り。
着が付きません。

そこへ綱が駆けつけて、二人掛かりで蜘蛛を捉えます。

遂にとどめを刺しました。

蜘蛛の首級をあげて引き上げる、綱と保昌。

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2007年3月25日 (日)

嵯峨狂言:釈迦

3月15日の清涼寺ですが、今回は苦労して狂言二つと、嵯峨お松明式を見てきました。
お松明は初めてで、上手く撮れなかったところもありますが、豪壮華麗さに感激しました。
狂言の方は、釈迦、と、もう一つ、お馴染み土蜘蛛。

但し写真的には失敗でした。
どちらもストーリーを追おうとして、ロングでばかり写したのです。
狂言堂の僅かな明かりで夜に掛かりますから、如何な手ブレ補正デジ1眼でも被写体ブレが起こります。
感度はやむなく1600。
非常にグレードが低くなり、枚数だけが多くなります。

それでアップするのは止めようかと思いましたが、そこら辺がド吝嗇で貧乏性、とにかく下書きは済ませました。

もし此の頁がお目に止まるとすれば、正真正銘のドケチを証明することになる訳です。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

釈迦、と言う題名で念仏狂言とくれば、さぞ抹香臭いお話かと思いきや、これが全く正反対でして、ドタバタコミック、
それもお釈迦様(の像)を主人公にしているのですから、見ようによっては随分”罰当たり”な所があるストーリイです。


お坊さんと寺侍がお釈迦様の像を据え付けて拝んでいます。
そこへ母子連れがお参りに来ます。

案内に立った寺侍は仰天、母親は美人ですが、娘がお多福です。

母親がお参りすると、お釈迦様が会釈します。みんな吃驚。

次に娘を案内し、お参りすると、お釈迦様は向こうを向いてしまいます。

どうしても元へ戻りません。  どうしたものか、と思案する二人。

母親にもう一度お参りをして貰うよう頼みます。

今度はお釈迦様と母親が手に手を取って出ていってしまいました。

困った寺侍と泣いている娘。
お釈迦様の処には代わりに坊さんが立っています。

寺侍が拝んだら、向こうを向いてしまった!
今度は娘に頼みます。

そしたら娘と坊さんが手に手を取って出ていきました。

お釈迦様の格好をして、寺侍が・・・
 オシマイ。。

念仏狂言は元々は真面目にお念仏を唱えながら仏様の功徳を称えたものでしょうが、だんだん大衆娯楽化した形で残りました。
でも現代の我々から見ると、生活感覚や環境が違うので、簡単には取っつけない面もあります。
おまけに仮面劇で、無言劇ですから、初めは多少の努力が必要ですが、身振りそぶりから色んな事が見えてきて面白く、今度は病み付きになります。
是非ご覧になることをお奨めします。

次回嵯峨狂言は4月1日、7日8日で各々3回公演
(済みません1回目は1時か又は1時半からか、情報が錯綜しています。公演の間隔は1時間半)
なお、演目は当日まで発表がないのが慣習のようです。

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2007年3月19日 (月)

嵯峨釈迦堂お松明式:炎

お松明の点火は8時半、
これはきっちり始まりました。
これだけを見せて貰うのなら、それでいいのですが、こちらは欲深くも嵯峨狂言も見ようとしています。
3時半、5時、6時半開演ですが、演じられるのは1時間程度で、間がたっぷりあります。
季候が良ければ宜しいが、この日のようだと待ちが大変です。

釈迦堂にお参りし、焙り餅を食べ、屋台で買い食いし・・点火時間の1時間前には、お松明を囲むロープの所へ行って場所取り(は既に終わっているので割り込み)と言った、
ほんま、あほかいな、と言う時間を過ごして、本番を迎えます。

定刻、先触れのお坊さんがおいでになって読経が始まり、お松明の北側に盛られた赤松の山に点火されます。

井籠に組まれた火床の松は燃え広がり、そこへ護摩木が投げ込まれます。
盛んな炎の先はお松明の高さにまで昇って、辺りを照らします。

やがて高張り提灯を先頭に、一団の行列が登場します。
高僧方と、それに続くのは地元の有力者達、場内を三周です。
子供達が「校長先生や!」と叫んでいました。

護摩木の床がやや下火になったとき、
何やら上から差し掛けられてきました。
詳細は判りませんが、点火の仕掛けが発動です。

火床で着火した口火は、空へ駈け昇ります。
ワイアの仕掛けがしてあって、お松明の真上から中心部の空洞へと、火が落ち込んでいくようです。

こうして三回、点火が行われて三本のお松明に火がつきます。
向かって左手前のが最初に点火し、向こう側が二つ目で、カメラ正面のが最後です。

点火のタイムラグが少し大きくて、
しかも真ん前に高張り提灯が来るという、
予想外の事態のせいで、
一番目、二番目に点火されたお松明の前に、
シルエットが出来てしまいましたが、

まあ、それも臨場感の一つでしょう。

一番後に着火の正面の分が、
今盛りです。

最初に火がついた左側のは、
早くも燃え落ち始めました。

山は越えても、
未だ火勢は盛んです。

辺りは明るく、
寒さは吹き飛びます。

此の周囲の何ほども離れずに、
お坊さんや役員方が取り巻き、
其の後ろのロープには、
我々観衆が十重二十重、
更に夜店の列が取り囲みます。

終わりました。
消防団の人が警戒し、観衆は散りだして、お店は最後の呼び込みに声を張り上げます。
まわりに居るのは概ね近所の人でしょうが、帰りのバスは一杯になりそう。
私は嵯峨嵐山まで歩いて、JRで帰りました。
9時台でも一時間に三本あり、何よりも満員で乗れない心配がないですから。

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2007年3月18日 (日)

嵯峨釈迦堂お松明式:宵



3月の15日、今年はとても寒い日でした。
三月上旬にむちゃくちゃ暖かくなったお陰で、より一層寒く感じます。

処でこの日はお釈迦様が亡くなった日とされて、あちこちのお寺で涅槃会が催されます。
此処清涼寺、嵯峨釈迦堂でもお松明式が行われ、春を告げる年中行事、一説では大文字と鞍馬の火祭りと合わせ、京の三大火祭りと言われるものが行われました。

当日朝から保存会の人達の手で、三本の大松明が作られます。(高さ21丈、20丈、19丈)
これは赤松と藤蔓で出来ていて、それぞれが稲の早稲、奥手、標準を表しており、其の燃え具合によってその年の稲作の傾向が判るのだそうです。
日が暮れて来る頃、お堂では涅槃会の法要が営まれ、8時半点火。
豪壮な火柱が立ち上ります。
これはお釈迦様を荼毘に付した様にあやかっているのだそうです。

当日は縁日風に露店が並び、境内の狂言堂では、伝統の嵯峨狂言が行われます。
午後3時半から1時間半刻みで三回公演、今年の演目は、愛宕詣、釈迦、土蜘蛛でした。
又本堂内はこの日無料公開されて参拝拝観自由となり、三国伝来の御本尊や涅槃図などを拝むことが出来ます。

仏画のジャンルに涅槃図というのがあって、お釈迦様が横たわっていられる回りを弟子、天部、王様から動物達に至るまでが取り囲んで嘆き悲しんでいる図柄ですが、巨大なのが特徴です。
日本最大は泉湧寺の縦16m横8mのもの、それと東福寺の室町初期、明兆作などが15,16日公開されたはずですが、行けませんでした。
本法寺の長谷川等伯超大作は4月15日まで公開されて居るとのことです。


狂言の一番手愛宕詣はカットして、4時半頃から9時半まで、寒い中飯も食わずに頑張った
(あほとちゃうか〜〜)
(〜あほそのものやな)  結果を順次アップいたします。
(そのわりできはよ〜ないな)  (・・・)


清涼寺嵯峨釈迦堂の巨大な山門を入ると、たくさんの露店に囲まれてこれが立っていました。
緑は赤松の葉、枝で、束ねてあるのが藤の蔓。
丸く輪にしてあるのは天狗の鼻を象ったのだそうで、12個あり、閏年は13個だそうですが、これは旧暦で閏月があったときの名残でしょう。

突然ですが、何処かで見たような・・
そうです、焙り餅。
こちらの茶屋にあることは聞いていましたが、お目に掛かるのは初めて。
寒いし幕間のインターバルはあるしで、飛び込みます。

基本的には今宮さんのと同じですが、幾らかの違いは判ります。
先ずお餅がやや長く付けられていて、焙り方がやや弱く、お味噌の味も少し違います。
優劣は云わず、12本でお値段が二割ばかり高いのは、やはり競争原理が働かないからですかな。

本日はお堂拝観は無料です。
広大なご本堂の中から裏の庭園、書院に至るまで、自由に拝観できました。

但し、寒くて寒くて、
板敷きの廊下の床の上など、
落ち着いて回りを眺めることは不可能です。

奥の方丈のお庭です。
小堀遠州作庭との伝承があります。
狩野探幽と小堀遠州はそこら中にごろごろしていますが、
(勿論真贋、関わり合いの深浅を含めて)
これは徳川初期のお陰で戦災に会わなかったからでしょう。
但し、此のお庭、そう言われて頷けるところがある数少ないお庭の一つでした。

釈迦堂の縁に戻りました。
暮れなずんできて空の明かりと(曇り空でした)
お堂の灯りが同じくらいになってきました。

山門の方を振り返ります。
赤い提灯が幾つも立てられています。

町名が書いてあるようですが、
地元各町の御奉納でしょうか。

ただ此の高低を見て、
相場を張る参考にする・・・
向きもあるやに聞きますが。

夜店の明かりがだんだんと増してきて、雰囲気がでてきます。
向こうの山は嵐山でしょう、それともひょっとして小倉山?

下へ降りて嵯峨狂言の最後の一番、土蜘蛛を見に行きます。
その前に買い食いをして、お腹の虫を殺します。

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2007年3月17日 (土)

妙心寺:龍泉庵


縁の板戸の一部ですが、江戸中期の狩野派です。
絵そのものの善し悪しよりも、このように目を近づけて観察すると、色々な意味で勉強になり、感動もし、それをお伝えすることも出来ましょう。  撮影自由の功徳です。



此の記事を書こうとしてタイトルを調べたのですが、
”京の冬の旅”と言うのを冠したのがありません。

此の18日の日曜日で終わりますが、京都の冬のイベントの一つで、当然此のブログにすれば”飯の種”です。
事実去年は一生懸命行って書いて、お陰で今でもノルマ!!のアクセスカウントを押し上げています。

(2ばんせんじやし、やめたんけ?)

いえいえ、この機会で無いと目に出来ないものが多いので、ちゃんと行って拝見し、ついでにスタンプも溜めて”いち和”さんへはもう行きました。
この龍泉庵で又三つ溜まりましたから、今度はかざりやさんです。
何の話かって?
京の冬の旅参加寺院でスタンプを貰い、三つ溜まると市内の何カ所かで、ご接待が受けられるのです。
今宮神社門前の焙り餅屋さんもその一つですから、
「それいけ!」です。

本論に戻って、何故”京の冬の旅07”というタイトル枠がないのか?
例の写真撮影禁止です。
非公開文化財を拝見して、自分の目の肥やしにすることは出来ますが、他人様に伝えるのに、私の筆力では文字通りに二番煎じになります。

従って期間が終わってから、総括でもして一日分にするか、と思っていたのですが、後半風向きが変わってきました。
東福寺東司と浴室は外から中を写すのは黙認されましたし、龍吟庵の禁止は方丈室内のみでした。
(信仰の対象を写してはいけない、と言うのはある意味で当然です)
そして今回、六つ目のハンコを貰いに〜〜位に不遜な気持ちで〜〜妙心寺龍泉庵を訪れたところ、先方から云われました。
「こちらは写真は自由です」
昨日の百万遍知恩寺に続いて二度目です。
当然本日1頁アップです。

係りの人と話が弾みました。
皆さん禁止禁止に?を持って居られるようです。
こちらは和尚さんの方針だそうですが、カメラマンも迷惑行為にならぬよう、常識と自制が必要でしょう。

龍泉庵は妙心寺四派(龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派)本院の一で、文明十三年(1481)の創設です。
方丈は後世のものですが、山内塔頭最大、平成11年堂内障壁画を一新されました。
日本画家由利本出氏の作品です。
四周の縁の板戸(最初の画像など)は江戸中期の狩野派ですが、その他に長谷川等伯の枯木猿猴図(重文)をお持ちです。
現在京博に保管されていますが、完全な複製が展示されています。

立派な方丈玄関です。
屋根を見て下さい。
金属板葺きではありますが、銅版では無さそう。
実に、実は、チタン葺き!です。

庫裏から上がって方丈脇廊下を表の方へと向かいます。
明るいところは方丈庭。 右手シルエットの板戸の絵の詳細は、巻頭を参照下さい。

前の写真でチラリと見えた梅の木です。
花は終わりに近いですが、枝振りの見事さが空間を引き締めています。

大方丈です。
確かに塔頭としては破格の大きさで、のびのびとしています。

方丈正面庭。
禅宗寺院の定形的な感じですが、なかなか心地よいものでした。

これが今日のお目当て、桃山絵画の巨峰、狩野永徳と並ぶ日本最高の画家長谷川等伯の作品です。
元は六曲一双の屏風で加賀前田家に伝わりました。
六曲つまり六枚の絵があったのですが、今残っているのは各二枚の二組を軸装したものです。
これは完璧なデジタルコピー。
お陰で鼻をすりつけて鑑賞ができます。

右側にある親子猿の方です。

どうやら手長猿が、
モデルみたい感じです。

これより右にあって、失われた部分については伝説が残っています。

加賀の二代目、
前田利長が此の屏風を枕元に置いて寝ていたところ、夜中に猿が彼の髻をひっぱったので、腕を斬り落とした。

というものです。

此の図柄は、
大徳寺にある中国南宗の画家牧渓(モッケイ・渓はもっと難しい字)
の絵を参考にしたものだそうですが、

猿は細い筆で詳細に描き、
それに対して樹木は荒いタッチで筆が走ります。

樹木の書き方には、
松林図屏風などに通じるところがあり、
長谷川派らしく荒々しく見えて、
実は完璧な繊細さが潜んでいます。

等伯を堪能して裏側へ出ました。
方丈と書院の間の何もない中庭に、何かほっこりとしたものを感じました。

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2007年2月10日 (土)

虚空蔵法輪寺:針供養

嵐山渡月橋の向こう、山手にある虚空蔵さん法輪寺は十三参りで有名です。

子供が13になったとき、その成長を祝い厄を祓って知恵が授かるようにと、社寺にお参りするわけですが、此処法輪寺の御本尊虚空蔵菩薩は特に幼年期から成長期に移ろうとする男女の守護仏として信仰されています。

四月十三日が十三参りの日ですが、その前後1ヶ月や秋10〜11月頃でも構わないようです。
写真はこちらの展望台からの眺めで、
天龍寺〜大覚寺嵯峨野方面が一望でき、
目の前に保津川〜大堰川が流れて、
渡月橋が真正面に見えています。

ところで、この渡月橋ですが、
こちらの十三参りでは、お参りをして知恵を授かっても、帰り道渡月橋を渡りきるまで振り向いてはいけない、
というルール?があり、
振り向くと、せっかく頂いた知恵が消えてしまう、
という事になるそうです。


−−−−−−−−−−−−−−−−−

さて、本日のテーマである針供養ですが、
これは虚空蔵菩薩のもう一つの守備範囲である技芸に関するものでして、
裁縫に使われて折れたり使えなくなったりした、古い縫い針を供養するものです。
二月八日と十二月八日がその日で、
古い針は仏前に納め、代わりに太い針を蒟蒻に刺します。
十二月には皇室からも古い針が納められる慣習だそうです。

当日は本堂前に古い針の納め箱が置かれて、午後1時から法要が営まれました。
お参りする者は、供えられた蒟蒻に太針を刺して拝礼します。
昔はお納めする古針を直接此処に刺していた、と思うのですが、
何らかの事情で、蒟蒻に刺すのは用意された針になったのでしょう。
お参りの方はさすがご婦人が殆どで、男が居たらカメラを首から提げています。
(てめぇはべつもんか?)
ご法事中のマナーは何とかお許し頂けたか、と云うレベルではありました。
(あんさんどやった?)
(・・・)


山門です。
下の道は狭く、バスが運行するのに交通整理員が常駐するほどです。

こちらは色々なキャラクターをお持ちで、鎮守社に電電宮という電気の神様があり、動物霊の供養塔有りで、参道には牛や山羊の像、これは大あくびをしている虎さんです。

甘酒のご接待です。
但しお心持ち。 この日は四月並みの異常高温でしたが、でも甘いものは元気が出ます。(私は100円入れました)

ご本堂の前です。お参りの人が集まり始めました。

このようにして皆さんが此の半年に使い古した針を持ち寄られます。

法要が始まります。

蒟蒻は三カ所に置かれて、これは中央の分。
紅梅色の色つきで、特寸の大判です。

お参りをして針を蒟蒻に刺すと逐次退席されます。
和装が身に付いた一団がお帰りになって静かになりました。 同時に不作法なカメラマンも概ね居なくなりました。

手前の盆に置かれたのを蒟蒻に刺すのですが、
五色の紐を付けた太針が一杯に刺さったところは、
一寸した壮観です。


小一時間続いた法要は終わって、
導師以下退席された後、
外へ出ました。


こちらでも梅が咲き掛けておりました。

地球温暖化はいよいよ本物なのでしょうか。


お神籤が、
”吉”
なら、いいんですが。
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2007年2月 7日 (水)

松尾大社節分:鬼踊り

午前中に石見神楽の奉納があって、午後からは節分行事。

鬼踊り〜勿論石見神楽の皆さんの〜
があって、
暴れ回って横着の極みを見せる鬼達〜
これが見物と一体になって、とてもとても楽しいのですが〜〜

当然の順序として、次にはご本殿から現れた宮司さんの豆に追い払われて、
拝殿に神職さんや福男と女の皆さんが上がられます。

追儺の儀として鬼門から順に四方に矢が放たれてから、お待ちかねの豆まきです。
拝殿からのは子供専用に設定されて、大人は特設豆撒き台の前。
福豆と福餅、蜜柑を奪い合います。
私は欲張りですから写真もお豆もと狙って、両方とも半分くらい成功しました。
京都観光研究所非公式情報として、帽子では駄目だから、袋を用意しろ、とのアドバイスに従ったもので・・)


1時頃から、と云うことでしたが、此の”頃”というのは曲者でした。
始まったのは30分以上遅く、二時前、
〜迄は行かないか〜
考えれば当然のことで、松尾大社はお酒の神様。
お昼の休憩を取って、景気良く踊る鬼さん達はもちろん・・・
踊りそのものに振り付けは無いようです。
四匹四人の鬼さん達は、それぞれの連係プレイでアドリブで踊っているようで、時々誰かが例の竹の鞭で床を叩くと、皆が倣って、ピシリッ、ピシリッと音が響きます。

一人^いや一匹が列を離れて高欄によじ登りました。
観衆に何かアッピールしています。

拝殿で踊っている方が少なくなって、てんでに縁先へ出てきます。

子供たちの頭を撫で、カメラマンにもサービスです。

とうとう赤ちゃんを浚って来ました。
鬼どもが集まって来てあやしますが、赤ちゃんはにこにこ顔。

遂には群衆の中に紛れ込んで、
愛想を振りまきます。

群衆の中に紛れ込んで、本殿の階段まで登った鬼達が逃げ出しました。

宮司さんを先頭に、
神官さん達が豆を撒きながら登場です。

鬼達は逃げ去って、拝殿では神事が始まります。
四方へ向けて追儺の矢が放たれます。

豆撒きが始まりました。
「拝殿からは子供専用」
係りの方が声を嗄らしていますが、随分でかい子供もいるようです。

こちらの特設台が一般大人用。
シャッターを切ってから駆けつけます。

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2007年2月 6日 (火)

八俣の大蛇:松尾大社の石見神楽

どうやら石岩見神楽、と云えば、八俣の大蛇、となるようです。

八俣の大蛇伝説はお隣の出雲での話ですから、石見神楽のメインテーマになっても当然ですし、何よりもそのエンターテイメント性において突出しています。

所で去年見た八坂神社での大蛇と、今回のとでは話の展開の仕方が異なっていて、前のがやや複雑に記紀伝承をなぞっており、今回のはその辺は単純化されてアクション主体です。

写真を並べた場合、今回のは逐次絵面だけ見ていただければよいのですが、八坂の場合を含め、通常はストーリィが判らなくては興味半減です。
私のような皇国の小国民は必須教養として持っているわけですが、この頃の”正史”もさぼって受験勉強する輩(あえてヤカラと呼びましょう)が、伝説の類まで”教養”を拡げるはずはないので、何処かで解説が必要か、と思います。
面倒なので、巻末にWikipediaのリンクを貼っておきます。


スモークの演出の中、宝剣を捧げた奇稲田姫(クシナダヒメ)が立ち、素盞鳴命(スサノヲノミコ)が現れます。

大蛇です。此処では三匹でヤマタノオロチをあらわします。
(はっぴきでやったらすごいやろな)

オロチはとぐろを巻き、絡み合い、舞台一杯に暴れ回ります。

遂には拝殿の縁にまで飛び出して、観客に向かいます。
迫力です。

此処で再びスサノヲの登場、オロチ退治が始まります。

蛇に巻かれて大乱闘の末、遂に一匹の首を取ります。

次のオロチに立ち向かうミコト

次々に討ち取って、全て退治します。

終わった後、裏手に廻りました。

出演の皆さん、とてもフレンドリーで、改めて解説をしていただきました。

塵輪の題名や高麿の役名などを知ったのはそのお陰です。


そしてオロチの一匹、(失礼、一人)の方は、頭の詳細を見せて下さった上、

被って、
「こういう風にして前を見ています」
と、実演して下さいました。

ここにWikipediaのリンクを貼っておきます。
ヤマタノオロチ

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2007年2月 5日 (月)

石見神楽:松尾大社節分奉納

節分、明日から春で新年、と云う日であるわけですが、
一言で云って、寒い日です。

おまけにノルマ氏とつきあうようになってからは、一杯色んな行事があって、走らされます。

本来なら二日の晩の吉田神社から始めるべきですが、此の超メジャースポットは敬遠して、三日の朝から弁当持ちで松尾大社に詰め、夜は千本閻魔堂の狂言&豆まきにハシゴしました。

松尾大社はわたしんとこからは遠くて普段疎遠なのですが、京都観光研究所のりょうたろうさんから詳しい情報を頂いたものですから、タイムスケジュール等綿密に練って出かけたのです。
大まかに云って午前中表題の石見神楽奉納、午後はそこの出演鬼?達による乱舞&神主さんらによる豆まきと云う段取りです。

此の石見神楽ですが、去年の祇園祭宵山の晩、八坂神社でみせていただいたのがはじめてで、その”ド派手”きんきらきんにたまげると同時に大変な感銘を受けました。
芸能狂言が念仏から発しながら娯楽性を追求して一つの完成を見たように、此のお神楽も神祭でありながら徹底したエンターテイメントでもあると思い、自今大ファンになりました。
それが祇園祭を待たず、石見まで行かずに見ることが出来るとあって、「それ行け!!」です。

行きましたら拝殿背後に幕を張って舞台としてありました。
八坂神社は能舞台ですから幕の裏側は楽屋ですが、此処の場合はお尻丸見えです。
(アホなお笑いタレントのはなしちゃいまっせ)
(あほ!)
此の次は裏側に廻って楽屋を見たら面白いかな、等とけしからん事を考えながら、10時開演30分前に着いて、拝殿の回廊右横にかじりつきました。
正面キザワシの間は、此の手の写真通超ベテランの三脚で既に占拠されています。
(このアクションにさんきゃくたてて、なにするんやろ)

背景幕を見たら去年の祇園と同じ柄のように見えましたが、後で聞くとこちらは”種”という保存会で、去年の金城町の方々とは別でした。

さて、そのだしものですが、最初は解説無しで一人舞、これは本来の神様向けお神楽なのでしょう。
次は塵輪(ジンリン)と云う題で、要旨は仲哀天皇の御代、魔物が日本を占領に来る、それを詔を受けた高麿(タカマロ)という勇士が天皇共々戦ってうち破る、と云う立ち回りの舞踊です。
そして次の一番は例の八俣の大蛇、これは明日アップいたしましょう。


最初の一番です。
いわゆるお神楽です。

塵輪です。
主役登場、他の役どころは皆面を着けますが、此の役だけは素面。
察するところ若いイケメンの方の役どころなのでしょう。
仲哀天皇がお出ましになって、
高麿に詔を下されます。

魔性のものが攻めてくるので、
戦って此の国を守るように、と。

魔物が現れました。二匹です。
ボンボラチンのついた棒を持っていて、時々それで床を叩きます。

迎え撃つ高麿。
彼の得物は弓矢です。

暫く魔物二匹との戦いが繰り広げられます。

天皇も出てこられて、2対2の戦いになります。

接戦!

乱闘!

勝負あり!


上演中時々科白が入り、進行の講釈が入りますが、よく意味が判らないのが殆どです。
でも魔物が「此の国をよこせ、出ていけ」と云うようなことを云うのが、聞き取れました。

仲哀天皇(チュウアイテンノウ)は古事記日本書紀に出てくる第14代天皇で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子、応神天皇の父、神功皇后(ジングウコウゴウ)の夫です。
つまり記紀伝承の中のスーパースターに取り囲まれた方、と云うことになります。
熊襲(クマソ)征伐の為九州筑紫に赴いた天皇は、そこで住吉大神が神掛かりした神功皇后から「西海の宝の国を与える」と云う神託を聞きますが、信じず却って住吉の神を非難したため、急死します。
神功皇后は身重の身で神託に従い、海を渡って新羅を攻め、新羅及び高麗、百済も降伏し朝貢するようになりました。
後に白村江の戦いで唐、新羅連合軍に大敗北を喫して半島から撤退し、二国の侵攻を恐れて防備を固めたりするまでの、支配と文化的被支配関係を、記紀伝承の雰囲気をもとに抽出して構成したのが此のお神楽、と云うことになるのでしょうか。

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2007年1月28日 (日)

嵯峨野:冬枯れ

御室仁和寺の西の山に御室八十八カ所と通称されるお堂の群があります。
山手、と云っても京都のことですから大したことはありませんが、山の中腹まで上がって一周すると88カ所のお堂が巡れる・・・のだろうと思います。
それ以上の知識はないのですが、本物の四国や西国はもう自信がないので、出来たら此処を歩いてみるか、
それも八つずつ一年掛けて・・など。
それにしてもどんな具合なのか、偵察が肝心と、先日出かけました。
ここら辺りを通るバスで、私が利用できそうなのは59番という系統で、金閣寺、竜安寺を通り仁和寺、福王寺を過ぎて山越と言うところまで行きます。
その先に広沢池があり、嵯峨野が広がるのですが、不思議なことにバスはありません。
一時間に一本だけ仏教大学広沢校と言うところまで延長されるだけなのです。
そしてその先の大沢池大覚寺と云えば、四条、丸太町などから嵐山や映画村等を経由しながら大覚寺でストップ。
つまり広沢〜大沢間の”真の”嵯峨野は市バスも走らない辺境なのです。
此の経路編成についての疑義は置いておいて、現実論としてその辺りには大変行きにくいのですが、偶々御室88カ所下見と乗ったのが一時間に一本の仏大前行きでした。

どうせブログネタ探しのエトランゼ、ふいと気が変わって御室で降りず、終点まで乗りました。

以下その辺りから大沢池間での散策諸々です。


バスの終点は丁度広沢池を過ぎたところです。
そこの角に一群の木立があり、お社があることは昔から知っていましたが、足を止めたのは初めてです。
境内から見た広沢池ですが、例年の通り冬は水がありません。

鄙びた、ささやかな神社です。 児(ちご)神社と言います。
由緒書きの札がありました。
平安の初期に大沢池大覚寺と並んで広沢池畔に遍照寺と云う大寺があり、寛朝大僧正と云う高徳が居られました。
その方が亡くなったとき侍童が後を追って池に入水したのを、里人が憐れんで此の社に祀ったのだ、と云うことです。

大僧正が池畔で座禅されるとき、その子が傍らに座って待っていた石が残っています。
これに座って安産を祈れば、生まれる子の知恵愛嬌及び長寿が叶うと云って信仰されたと言うことです。

この辺りが真正の嵯峨野と言うべき所でしょう。
これだけ広大なエリアが昔の侭の景観を保っているところはそうありますまい。
それは自然景観だけでなく人々の営みも含んで昔の侭の美しさが保存されているのです。

池の西側に小さな出島があります。
弁天様がおいでです。
水の枯れた池の底へ降りてみました。 親子連れが楽しそうにしています。

こちらのベンチにはアベック。
一月の午後、嵯峨野の風は冷たいのですが、そんなことは感じていないのでしょう。

池から反対のほう、西の方です。
一面の耕作地で、あちこちに野焼きの煙が上がります。
牧歌的そのものの背景に見える山は愛宕山。

前の写真の画面の真ん中辺り、大覚寺への道の中程です。
田畑の中を一筋の道がくねって続いています。
簡単な舗装がされて農業用の野道ですが、王朝以来の名前があります。
即ち”千代の古道”
その上に立って大根の収穫を写しています。

大沢の池に着きました。
大覚寺の側は工事中で通れません。 オフシーズンでないと出来ないことをやっているのでしょう。
私はこの間のロケの真似をして、時代劇背景用の写真を作りました。

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2006年12月25日 (月)

嵐山花灯路:06 法輪寺と中の島

法輪寺は虚空蔵菩薩の霊場で、十三参りの時、渡月橋を渡りきるまで振り向いてはいけない、と言う風習で有名ですが、
今回に関しては伝統も民俗もくそ食らえ!でした。
中の島の種々灯りパフォーマンスと共にお届けします。

先ずは、山に登って法輪寺から、




さて、何とコメントするか、〜迷っています。
云いたいことは、いっぱいあります。
ほっとけば否定的な罵詈讒謗になりそうですし、もう少し落ち着いて色々考察すれば、膨大な文章になりそうです。
どうもこの頃、裸の王様的雰囲気のあるこのブログ、遠慮して技術的解説に留めます。
これは櫓に載せた何台かの大型プロジェクターでの投影で、刻々変わります。前のフィルターの操作のようですが、組み合わせはコンピューターのランダム発生システムに依っているのか、何百万種類とか、二度と同じ場面はないとか云うのが触れ込みのようで、何にしろ吃驚仰天するのは確かです。
これは芸術か?
以下 ストップ、、ノーコメント。

山を下りて川の方へ向かいます。
阪急嵐山駅の前を通って中の島へ。途中の水路から見た嵐山、及び中の島の茶店など。

その橋の上にあった”造形”です。
よく出来た方に属すると思います。
反対側にあった、同じ系統のオブジェ。
同じ作者でしょうか。

何しろこの花灯路の催し、
灯路がテーマ、
即ち灯りを扱った造形乃至芸術の出番な訳ですが、
はっきり言って玉石石混交、
でもなにしろ
”やらなきゃぁ”
ゲイジュツもくそもありません。

その点、ブログ上でうだうだ言ってる奴より数百倍偉いことは確かでしょう。

中の島に渡りました。

幾つもの灯り、造形が
妍を競っています。

・・と、此処まで書いて気が付きました。


法輪寺も中の島も、
出されている造形、パフォーマンスには
”妍”
というファクターが足りないのですね。
”我”
のみ前に出ている・・。
のでしょう、
きっと。

嵐山花灯路06,これで終わります。

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2006年12月24日 (日)

嵐山花灯路:06 嵐山

大覚寺は他の花灯路エリアから少し離れているせいか、人も少なく其のぶん静かで環境にマッチしていました。
リッチな”御所”の空間を独り占めできたりして豪勢ですが、見ようによっては少し寂しいかも知れません。

そして此の少し”隔絶”したエリアを活性化するべく、主催者側も色々手を打っています。
一つはシャトルバスで、これは毎0分発から1時間3本、大覚寺〜嵐山バイパス陸橋経由、天龍寺嵐電前行きで、停まるのは此処だけ、そこから大覚寺に戻りますが、乗車時にこの間の乗降に限り有効な100円で乗れる補助券をくれます。
大覚寺からはその他に28番の市バスが一時間3本、更に京都バスもそのくらいあるので、此の期間(の夜)の大覚寺〜嵐山間は至便である、といえるでしょう。
他にも二尊院と結ぶジャンボタクシーも走っているようでした。

さて、嵐電嵐山で降りて、渡月橋へと向かいます。


ウイークデイですが、人出はまあまあです。
大堰川畔に出て一番に目が行ったのは、人力車の列と紅葉でした。
(どこに目がついとるんや?)
(つぎの写真、さんしょう!)

大堰川を隔てて、天下の名勝、嵐山を望む〜〜の景。
人力車の写真の後ろ、背中側、こっちが先に目に入るべきでしょう・・・

・・天下の名勝、渡月橋を望むの・・・・・
(ただのはしげたのしゃしんやんか!)

元へ戻って観光人力車さん、此の通りの大盛況です。
でも、膝毛布を共有してお二人で嵐山の夜・・・確かにいいですね。

渡月橋を渡って対岸、法輪寺、中の島へ。
両岸共にそれぞれの灯りが入って綺麗でした。

橋を渡ると中の島で、向こう岸との間に狭い水路があります。
嵐峡館という、船でなければ行くことの出来ない旅館が川上にありますが、
そこの専用船が、しきりに発着していました。

渡って山に登ります。 法輪寺へ向かいます。
展望台からの眺めは絶景ですが、思いっきり大きく京都タワーを写してみました。
右手にホウズキ提灯のように並ぶ明かりは、京都駅の巨大ビルが持つ航空標識灯の列です。

法輪寺のライトアップ、及び中の島の灯りパフォーマンスは纏めて次回にご覧頂くとして、
渡月橋を渡って嵐電嵐山に戻ります。

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2006年12月23日 (土)

嵐山花灯路:06 大覚寺其の2

大覚寺の続きです。
昨日一杯書きましたので、今日はいきなり写真から。


正寝殿と呼ばれる建物です。
写真左側が宸殿の裏側になります。
寝殿が二つあって、左近の桜、右近の橘を持つ建物の裏にあるこれには更に”正”の字が付く?
そうです、此処が南北朝和解の会合が行われた場所なのです。
今の建物は桃山時代のもので宸殿とともに重要文化財。

正寝殿には十二の部屋があると云うことですが、見えているのは御冠の間、
後宇多法皇が執務された上段の間だそうです。
此の後ろに剣爾の間、対面の間などがあると云うことで、これらが南北朝和解の処なのでしょう。
障壁画はこれも伝狩野山楽。

此の可愛らしい兎達は、前の写真の右側にある紙障子、畳敷きの外廊下の腰板に居ました。
江戸は元禄時代の画家、渡邊始興の作と云うことです。

同じくこれは南側の外廊下、畳敷き一間幅突き当たりの板戸です。

ライトアップの灯りがあるので、よく見えるところと見えないところがありますが、恐らくはこれも狩野派でしょう。

なお畳の縁が赤いのは、此処が皇居であることを示しています。

畳廊下から外を見ると、中庭越しに宸殿の灯りが漏れています。
この照明も花灯路の催しの一環でしょう。
丁度牡丹の画の裏側に当たり、障壁画の画題は変わりますが、タッチは同じ、伝山楽筆です。 重文です。

日が暮れてきました。また宸殿に戻ります。

暮れなずむ宸殿の前縁。
普段は非公開の此の御所の、重文桃山障壁画に明かりが灯されていて、夕暮れ時に一人眺める。
最高の贅沢でしょう。
写真技術が拙くて、雰囲気が伝えられず、済みません。

大覚寺にはこのほかに御影堂(心経前殿)や御霊殿などの堂宇が在り、御霊殿には等身大の後水尾上皇が座っておいでで、天井格狭間は四季の花模様ですが、これらは内部撮影禁止。
その先にある五大堂に出ます。
此処は御本堂ですから勿論中は撮れませんが、東側へ出ると此の光景です。
大沢池が広がっていて、鑑賞デッキには創作灯り、遙か向こうでは未だ鬼平が働いているようです。

すっかり暗くなってきました。
五大堂の前にはテントがあって、花灯路のスタッフが詰めています。
夜間拝観はこちらから入ってこちらへ戻ります。

私はシャトルバスを利用して、嵐山渡月橋へと向かいます。

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2006年12月22日 (金)

嵐山花灯路:06 大覚寺其の1

嵯峨山大覚寺、大きなお寺です。
広い敷地に沢山のお堂が並んでいますが、何れも壮大かつ由緒のものです。
そして其の沿革も並大抵ではありません。

そもそもは平安時代の始め、其の名も嵯峨天皇と贈り名された方がこの地を愛されて、離宮を建てられたことに始まっています。
これには唐に留学した弘法大師が関わって居られ、長安の景勝地嵯峨山になぞらえられたネーミングでした。
この事業は洞庭湖を模して大きな池、即ち大沢池を築造する程大がかりなものでした。
貞観18年(876)嵯峨天皇の孫であり、弘法大師の法弟である、恒寂入道親王を門跡に迎えてお寺になり、大覚寺となります。

鎌倉時代の終わり頃、後嵯峨、後宇多の帝が此の寺に入られて門跡を兼ねられ、其の血筋は大覚寺統と呼ばれました。
もう一つ後深草天皇の系統を持明院統と云い、此の両者に皇位継承の争いが起こります。

大覚寺統に後醍醐天皇というカリスマ的人物が現れて、京都を去って吉野に朝廷(南朝)を開き、1333年鎌倉幕府の打倒に成功します。
都に戻った後醍醐の帝は天皇親政の旗印の下、世に言う建武の中興を発足させます。
此の軍事的成功を支えたのは足利尊氏、新田義貞、北畠親房、楠木正成等でしたが、やがて足利尊氏の離反を招き、尊氏は持明院統の天皇(北朝)を担ぎます。
これは結局尊氏の勝利となって、北朝のもと室町幕府が発足する事になります。
そうして1399年、南朝と北朝の和解が成立し、正統な皇統の象徴である三種の神器が、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に引き渡されます。
そのセレモニーが行われたのが、此処大覚寺なのでした。

公式には南北朝が合一し、事後の天皇は北朝系となったのですが、その後も対立混乱は続いて応仁の乱の頃まで尾を引いいており、戦国時代の伊勢の国主北畠家は南朝の遺臣といえるのでしょう。
なお、南朝が正統とされるのは、三種の神器のこともありますが、明治維新に際して明治天皇がそう裁断されたからで、天皇家万世一系の神話を維持し、近代的中央集権国家を築き上げるための必然であったのでしょう。

・・・・幾らお寺が大きいとはいえ、些か前置きが長くなりすぎました。
(まいどのこっちゃ)
でも嵯峨野の紅葉シリーズが首塚シリーズになりかけた挙げ句が此のお寺のこの歴史です。
忘れかけた南北朝の時代を少しお浚えしてみました。
受験勉強で歴史の単位を放棄した方も宜しくどうぞ、
愛国心を鼓舞して美しい国が築けますよ・・・・・。


表門です。
見えているのは庫裡のようなもので、明智陣屋と呼ばれ、亀山城の遺構と伝えられます。
亀山=今の亀岡は、明智光秀の領地でした。

式台玄関。
つまり正面玄関ですが、金碧の障壁画に飾られています。
重要文化財、伝狩野永徳。

一応の拝観順路はありますが、こちらの特徴である諸堂を結ぶ屋根付き床つきの回廊を辿れば自由に往来できます。
日の暮れ方の明かり具合を見ながら何度か往復しましたので、伽藍と絵画を堪能できました。
此の写真は出だしの部屋で、灯りや竹細工、木彫などの作家が作業し、自作を並べて居られます。

最初にあったのは宸殿です。
さすがは嵯峨御所、
名前からして違います。
これは後水尾天皇御下賜のもの。
即ち皇后東福門院の大宮御所、
庭前に右近の橘が控えています。

天皇と徳川秀忠の娘である皇后は仲睦まじくあったとのことですが、
後水尾天皇は幕府の統制に対して徹底的に抗戦された方であり、
又修学院離宮を造営された偉大な文化人でもありました。


宸殿の内部正面。
此処も見事な金碧障壁画で埋まっています。
伝狩野山楽筆、重要文化財。
山楽は秀吉の小姓でしたが、認められて永徳の養子となった天才です。
狩野本流が江戸へ移って形骸化した後も、京に残って画業を発展させた京狩野の祖でもあります。

同じく西側のコーナー。
素晴らしい牡丹の図です。

寝殿造りですから、蔀戸が付いています。

下は立てられ、上は釣り上げられています。

中には障子と御簾があり、外側は非常に広い宏縁です。

宸殿南の縁から東を見たところです。
見えている建物は大沢池端にある本堂です。
五大堂とも言い、此のお寺の御本尊、五大明王をお祀りしています。
宸殿との間の空間がお寺の中軸線で、右手に勅使門があり、左側には此のお寺としての中心伽藍である勅封心経殿、及びその前殿があります。
これは嵯峨天皇が書写された般若心経をお納めたもので、此のお寺は今でも写経道場として、多くの人の写経を受け入れています。

こういった回廊が諸堂の背後や側面を縦横に結んでいます。
向こうに見える朱色のお堂は霊明殿。
新しく出来たお堂のようですが、夕暮れ時、正装のお坊さん方が集まってお経を上げて居られました。

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2006年12月21日 (木)

嵐山花灯路:06 大沢池

昼間池の回りを一周し、日の暮れ方に大覚寺に入ってあちこち拝見して廻りました。
時間順から云うと逆ですが、出てきてからの夜の大沢池です。
此処はもう”嵐山花灯路”の領分になっています。


大覚寺の通常拝観は4時半で受け付け終了。
昼間は正面玄関脇の通用口から入ります。
夜間拝観は昨日の河童の真正面、つまり池の側に開いた臨時の出入り口から入ります。
私は昼間側から入って夜側から出てきました。
そこの処にある鳥居と紅葉です。


これは五社明神の拝殿でしょう。
蜘蛛の糸の造形?パフォーマンス?(バチアタリめ!)
人が手で触れないよう、透明幕で囲っています。

夏の愛宕古道街道灯しでお馴染みの、
竹籤製の灯籠です。

確か嵯峨美の作品の筈。

同じグループの最大級の行灯です。

後ろにあるお堂ですが、昼間は鬼平犯科帳でのセットの代わりになっていました。

これと比べると、大きさがよく判ります。

放生池と呼ばれる大沢池が入り込んだ部分に、提灯の列が浮いています。

もう真っ暗なのですが、空の明かりと背景が僅かに残っています。


始めの鳥居の処まで、
戻ってきました。

おうどん屋さんが出ています。

普段は写経の人の接待用なのだそうですが、
大きなお揚げと柔らかい若布、沢山おネギが入っていて、
京都風のあっさりお出汁。
寒さも加わってか、素晴らしいお味でした。

!写真に撮るのを忘れました。
いいや、撮るのを忘れるほど美味しかった、
の、です。
一杯500円。

本筋を離れて、ちょっと、野次馬
花灯路の催しには色んな造形が出品されています。
多少○○混交の嫌いはありますので、私も参加?してみました。
たまたま雨が降って、床几の毛氈に懸けられたビニールカバーに雨水が溜まっています。
向こう側には雨で流れた何かのパフォーマンスの案内が、これも水滴に濡れて置かれていました。
其の組み合わせで即席に拵えた、私のパフォーマンス、写真です。
(アホカ)

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2006年12月20日 (水)

嵯峨野の紅葉:大沢池のおまけ、鬼平犯科帳

大覚寺と大沢池が時代劇のメッカであることは有名です。
先ず第一に電線がない。
観光地の割に野次馬が居ない。
などなど、でしょう?

はっきり言って私、此の方面について全く権威がありません。
鬼平、鬼の長谷川平蔵、火付盗賊改め方のボス。
原作、池波正太郎。
テレビの方は、主演、中村吉右衛門、原作全ての映像化に伴って終了。
以上で、シマイッ!です。

でも今回やっていたロケ、関係者に聞いたら、鬼平だと云われました。
船の先頭にのっかって腕組みしているおっさん。
見たことあるような・・・

 (○○○○○しはしんけいつう)かな?

紅葉を撮りながら歩いていた対岸、北の岸で凄いライトが光っていました。
前には一艘の和船。
さては、と長玉で引っ張った画がこれです。

紅葉を撮りながら池を回ります。
名古曽の滝蹟を過ぎて平安時代の遣り水の辺り、枯れた蓮の向こうに何やら小汚い小屋みたいなものが・・

ぐるっと回って、前に出ました。
船宿かそば屋か何かの廃屋、と云った塩梅です。
表に出ている屋号の行灯は破れています。

その先へ行くと、
やたらにケーブルが引っ張られ、
脚立があり、ライト類があります。

そこにいた人に聞いたら、
テレビだ。
鬼平だ、と云うことでした。

やってました。
俳優さんの乗った船に裏方が取り付いて、位置決めをしています。

漕ぎ出しました。
舳先の裏方さんはくっついたまま、どうやらガイド役?
舳先とロープは画面に入っていないのでしょう。

カメラを引くと、こんな具合です。
ライトとレフが光って、どうやら本番です。

一カット終わったのか、
皆さん上陸して多宝塔の廻りに集まりました。

休憩のようです。

鬼平配下の役人達みたいですね。

日が落ちてきました。
挿入用のコマを撮っているのか、それとも夜もやるのか、
放生池に張り出した陸橋の上で、別働隊が動いていました。

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2006年12月19日 (火)

嵯峨野の紅葉:大沢池

(まだ もみじ!?)
そうなんです、自分でも驚いています。
なんか、ちょっと、はずかいしいくらい。

カメラが壊れた話は昨日致しました。
即入院です。
機種は世界の○○○、一応気に入っていますから、これ以上の名前は書きません。
直指庵には脇差し一本、コンデジのデマージュXgで乗り込んで、それなり一日分働きました。
でも、このまま引き下がっては男が廃ります。

幸い我が家にはバックアップ機が居りました。
下取りに出そうと思いながら、未練が残って置いておいたαスイートDです。

直ちに出動、最終日の18日、嵐山花灯路に向かいます。
ポシャッた17日の行動計画の、残りの分を消化です。

1時間遅れの3時5分四条烏丸始発大覚寺行き市バスに乗って終点下車、日のある内に大沢池を一巡り、そして大覚寺に入って昼から夜への変化を撮る。
出て再度夜の大沢池を巡ってから、シャトルバスで嵐山。
渡月橋、中の島、法輪寺と云う流れです。

さて大覚寺に到着して大沢池を一巡り、二つの予想外がありました。
一つは紅葉、もう一つはロケです。
鬼平犯科帳。
これで今日明日稼いでおいて、残りはゆっくりアップいたします。


池の手前から東へ、左まわりに池を巡ります。
土手に上がっていきなり目に入ったのが此の紅葉、地面は一面散り紅葉。

南側から見た大沢池。
左に大覚寺の堂宇が、右に多宝塔が見えます。
画面右直ぐ外にはこっち向けに強烈なライトが二台居るのでカット。

池の東側に名古曽の滝蹟の碑がありました。

これは平安時代の初期に嵯峨天皇がこの地に離宮を営まれ、大沢池を作られたときに水源であったと思われる名勝ですが、
百人一首の
”滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ”
は、藤原道長の時代に前大納言藤原公任が詠んだもので、この頃には滝はもう枯れていた、
と云うことになります。


これこそ真っ赤。
滝の碑の傍ら、嵯峨野をバックに西日を受けて輝く紅葉がありました。

池の北東側です。
屈曲した流れが入り江のようになって池に入っています。
これはかつてこの地にあった平安時代の遣り水を再現したもので、発掘調査の結果です、
但し名古曽の滝が枯れた以後のものの復元で、其の以前には更に大規模壮麗なものがあったようです。

遣り水の背後に広がる嵯峨野です。
古都保存法によって厳重に景観が保たれています。
山裾にはなにがしかの紅葉も見えますが、此の光景は平安時代とそう変わっては居ないことでしょう。

概ね池の北側です。
竹林をバックにして、此処にも一群の紅葉が赤く広がっていました。

池の北にある多宝塔を背景に、
名残の紅葉。

大覚寺は嵯峨天皇に始まって、
南北朝から江戸初期まで、
皇室と我が国の歴史に深く関わって、
伽藍は皆由緒のものですが、
これは昭和に新たに加わった多宝塔で、心経宝塔と呼ばれます。

池を一巡りした頃、黄昏が近づきました。
水鳥達も塒へと急ぐのでしょうか。
大覚寺側の岸にちょっとした桟橋があって、そこに此の河童が座っています。
河童の丁度真正面が夜間拝観の入り口です。

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2006年12月18日 (月)

嵯峨野の紅葉:直指庵

未だに嵯峨野の紅葉です。 自分でも意外です。
実は嵐山花灯路第二弾を計画して出かけました。
大覚寺終点までバスに乗って、直指庵まで歩き、戻って大覚寺〜大沢池で昼と夜を渡る。
臨時のシャトルバスで夜の嵐山〜渡月橋、中の島〜法輪寺〜と云うわけです。
出だしでいきなりトラブりました。
カメラが言うことを聞かないのです。
詳細は別として、色々なケースを想定してやってみましたが、デシタル録画部が壊れています。
要するに完全パー状態。記録不能。

そこで何時かの貴船と同じく、脇差し一本で世間を渡るべしなのですが、今日に限ってコンデジのバッテリとメディア予備を持ってこなかった!

手持ちの武器で出来る限りの仕事は、直指庵一軒のリポートのみ。
と、覚悟を決めての撮影分です。

処でその直指庵ですが、大覚寺を北へ抜けて10分くらい歩きます。
嵯峨野の本当の北の外れ、山懐に近いところにひっそりとしてあります。
そして、何と紅葉が見事でした。
何本かの見事な紅葉のほかに凄い散り紅葉でしたから、最盛期には真っ赤だったことでしょう。
そして意外と境内は広いのですが、お寺の境内と云うよりも静かな田舎屋が、竹藪の中に佇み広がっていると言った感じで、嵐山に近い辺りの観光寺院とは又ひと味違ったところです。


直指庵の門です。

表の道、
と云っても竹藪の中の車一台で一杯の道。

そして車がもう前へ行けないところから、
脇に入ったのがこの門です。



門の屋根は藁葺き、
竹林をバックに幾ひらかの散り紅葉。


散り紅葉を踏んで進むと、
一段上に本堂があり、
頭上には未だ赤い紅葉がさしかけていました。
その更に上には未だありました。
真っ赤な紅葉の大木が。


此のお寺は今は祥鳳山と称して浄土宗ですが、
正保3年(1646)黄檗宗隠元禅師の法灯を継ぐ独照禅師が草庵を営んだのが始まりです。
黄檗禅の大寺であったのですが、その後暫くして衰え、現在開山堂にある老師の卵塔のみとなりました。

幕末、関白近衛忠ひろ〜(冫偏に臣と己、其の下に 、が四つ)
〜《時代祭で巨大な尻尾を付けていたあの方です》
の老女津崎村岡が再建しました。

この女性は勤王の志士と公家の間の連絡役で、
安政の大獄にも連座した勤王家です。
写真の地蔵さんの向こうに、お墓がありました。

一杯の散り紅葉の向こう、
中門でしょうか。

其の更に向こうにあるのは、水子地蔵堂

これは思い出草観音と申します。

此のお寺の雰囲気、嵯峨野の奥、もの想うには、この上もないところ。


来訪者が書き残した思い出草ノートは、
5000冊を越えているそうです。

一番の高みに開山堂がありました。
裏は竹藪、屋根には紅葉。

枯れて残った紫陽花二つ。

散り紅葉の石段。

戻り道。
見えているのは本堂です。


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2006年12月17日 (日)

嵯峨野:滝口寺

この間祇王寺まで行きながら、滝口寺へは行きませんでした。
些かへたばっていたことも確かで、それもあって道を誤認したのです。
祇王寺の手前の分かれ道にボックスが置いてあって、此処では大覚寺と祇王寺の共通券を売っています。
祇王寺の入り口は直ぐ其の前で、切符売り場は塀の中。
祇王寺と滝口寺の位置関係は判っていましたが、どうも共通券ボックスが塞いでいるのが滝口寺への道のようでした。
奥は大分荒れていて、客が入れる雰囲気ではなさそう。
滝口寺はクローズかな、と云う錯覚を持ちました。

帰って暫くして京都観光研究所のりょうたろうさんが、ブログに滝口寺を載せはりました。
あれあれ、と云うわけで雪辱戦に出かけたのです。


右が祇王寺の入り口です。
実は真っ直ぐ行くと滝口寺なのですが、人は皆右へ入って、そこの切符売り場で溜まっています。
写真で見ると真っ直ぐ正面なのに、何故か存在が目に入らない、これが滝口寺への道筋でした。

少し上がって直ぐこの門があります。
全く以て、これぞ嵯峨野原風景、と云った様子です。
いわゆる観光寺院(ではあるのですが)のよそ行き、お化粧したのとは違う、これこそ素顔の嵯峨野、小倉山山中。
そう言った意味で素晴らしい価値のある空間だと思います。

突然ですが、首塚です。

実際門を入った真正面に突然ありました。

石の扉にある紋所は一両引き、
この前寶篋院で見た、
足利家の家紋は横線が二本の二両引きでした。

首塚の主は、
新田義貞。

楠木正成と共に、
後醍醐天皇の南朝を支えた忠臣です。

ただし南河内の土豪、悪党の正成とは違って、この人は源氏の御曹司、
足利尊氏とどちらが源氏の正統か、本家争いが出来るくらいの毛並みでした。(紋所が如実に示しています)
武運つたなく北陸の方で敗死して、首を三条河原に曝されました。
それを密かに奪い取ってこの地に埋めたとされるのが、義貞の妻、匂当内持(こうとうのないじ)で、彼女の供養塚が横に、家臣達のものが前に並んでいます。

何かこのところ、首塚と悲恋話、無常の話が続いていて、
滝口寺も平家の武士、斉藤時頼と、建礼門院付きの女官横笛との悲恋物語をベースにして出来ています。
ただ境内へ一歩入ると、お隣の祇王寺は女性、こちらは男性、武士の物語と云った違いが現れていて、何とも対照的で興味深いところです。

本堂へ向かう石段ですが、荒々しくて居ながら、何か垢抜けしています。
嵯峨野、小倉山〜滝口入道のキャラクターでしょう。

平重盛の家臣、斉藤時頼は横笛との恋を周囲に咎められて出家し、
それを聞いた横笛が尋ねてきますが、
時頼改め滝口入道は会いません。
横笛は歌を遺して立ち去り、
出家してしまいます。

これが此のお寺に纏わる悲恋話の粗筋です。

上の段にある本堂です。
藁葺きの民家と云った風情です。

室内です。
内部の設えも、お寺と云うより書院です。
床に滝口入道と横笛の像が置いてあり、誰でも上がって拝むことが出来ます。

本堂の回りは竹藪と雑木林。
一周できますが、少し荒れていて自然のまま、よそ行きの構えが無い処が、私をひどく引きつけます。
小さいお堂は、平重盛の供養堂です。


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2006年12月16日 (土)

嵯峨野の紅葉:清涼寺嵯峨釈迦堂

証文の出し遅れ、と言う言葉があります。
或いはバスに乗り遅れた、と云いますか。
とにかく今になって未だ紅葉を表題に付けてのアップです。

実のところ今回アップ分は、先だっての寶篋院などの日(11/29)の分と、花灯路の日(12/11)の分の合体です。
但し紅葉自体はそれだけの期間存在した〜つまりは一斉に赤くならず早いのが枯れた後に、真っ赤になるのがあった、と云うことではあります。

前半11月29日撮影時は、入ったところの池の小さい紅葉と、多宝塔横が真っ赤でした。
後半12月11日には太子堂と阿弥陀堂の前が真っ赤で、先日の分は散っていました。


嵯峨釈迦堂は歴史の古いお寺で、
現在の国宝御本尊には体内に絹製の五臓六腑が入っていることが知られています。
最近判ったのですが、作者名など色々な資料が内蔵されているのが発見されました。
此の仏様は中国製でインドの様式を模したものなので、三国伝来のお釈迦様と呼ばれています。

春3月15日のお松明と、4月に行われる嵯峨狂言が有名です。

門を入った左手にある茶店です。
焙り餅が有名らしいのですが、今宮さんとどう違うのか、いっぺん食べてみなくては。

茶店の前にある多宝塔です。
横の紅葉が盛りでした。

(次の写真も)


本堂脇の大きな鐘楼ですが、左手に多宝塔が、右手に狂言堂が、ちらりと見えています。
この上に上がると、舞台目線で狂言を見ることが出来ます。

豊臣秀頼首塚、
及び大阪の陣戦没者の供養碑です。

どういう経緯で此処にあるのか良く知りませんが、
現在の堂宇は徳川桂昌院の寄進、
その前に焼けた堂宇は豊臣秀頼寄進でした。

多宝塔の西側奥に太子堂があります。
聖徳太子の八角円堂です。 
其の回りの紅葉は12月に入って盛りになりました。

境内の西南の外れです。
塀の向こう、道路を隔てて寶篋院があります。

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2006年12月15日 (金)

嵯峨野の紅葉:二尊院

嵐山花灯路に行くべく、日暮れ方に二尊院まで着きました。
清涼寺、滝口寺経由です。
500円の拝観料を払って入り、出るときはもうナイターでした。
(夜は800円です)

この頃の夜の拝観は昼の分を一旦追い出してクローズし、半時間くらいの間を取ってから夜の部オープン、と云うのが多いようですが、見せていただく方にすれば不便きわまりなく、一端出て何処かで時間潰しをするか、夜昼どちらかをギブアップするかしかありません。

その点今回の花灯路参加の各社寺は、大変有り難いやり方です。
そんなことでブログの方は、今日アップの分は日が暮れかかるまで、灯りが入ってからは前々回にと、時間が逆さまに流れています。



二尊院の門前。
此処にも大きな生け花が飾られています。 
花灯路のイベントです。


二尊院の正面参道、
通称紅葉の馬場です。

残念ながら最盛期は終わって、
ちらほらと残りの紅葉があるだけですが、
常緑の緑と葉の落ちた枝と入り交じって、
此の通り結構な光景でした。

道の両脇に並んでいるのが竹灯りです。


上がりきって左へ進みます。

勅使門(唐門)越しに本堂がを見えました。
本堂へ上がります。






左は本堂南の庭ですが、
紅葉を含む佇まいは、
目を見張るばかりの美しさでした。
御本堂です。
真正面に如来二尊が並んで居られます。

右は人が誕生しこの世に送り出されるとき、
面倒を見て下さる釈迦如来、
左は寿命を全うしたとき、浄土からお迎えにきて下さる阿弥陀如来、
それ故此のお寺を二尊院ともうします。

梵鐘は参詣者が祈りを込めて突くことが出来ます。
梵鐘の音を写したいと、スローシャッターを切りましたが、
鐘はぶれずに手がぶれました


後ろは小倉山、
二尊院の山号も小倉山です。
上の段で何をしておられるのか、白煙が棚引いて紅葉の上を流れました。

藤原定家の時雨亭、
小倉百人一首編纂の地は二尊院と常寂光寺、
それに厭離庵が候補として伝承されています。




暗くなり始め、ライトが点き始めました。
一枝の紅葉が丁度其の灯りの中にありました。




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2006年12月14日 (木)

嵐山花灯路:常寂光寺

先に白状しますと、実は私常寂光寺は全くの初めてです。

全く予備知識無しに夜入っていったものですから、やることが目先の対応ばかりになってしまいます。
闇夜の鉄砲に近い状態ですので、ご存じの方が見られて何やッてんだ、と仰る処があるかも知れません。

その辺はご勘弁頂いて、とにかく映像をどうぞ。


外の門を入って拝観券を買い、奥へ進みます。

此は仁王門でしょう。
だって、仁王さんが居ましたから。
其の向こうは急な山のようで、門越しに灯りが縦に並んで見えます。
ライティングの見せ場でしょう。

其の仁王さんの草鞋です。
(何で仁王さんには草鞋なの?)
(よ〜知りません。何方か教えて下さい。)

仁王門を入った情景です。
左側、真っ直ぐ上がるのが本堂への石段。 右側は本堂のあるレベルを一周して戻ってくる階段です。

上へ上がりました。
そこからの見返り、見下ろしです。

階段はこのような勾配で両側に灯りが並べられ、
それは仁王門の外から見ると、
まるで絶壁に灯りが懸けられているかのように見えました。

そして仁王門の屋根越しには、京都の街の灯りが見えています。

此の情景は夜間拝観が無ければ、普通には目に出来ないものでしょう。

本堂の脇から前庭の方を見ています。
遙かに点々が見えるのは京都の灯りです。

本堂の裏手です。
泉水があり、名残の紅葉がありました。

そしてその上に、美しい多宝塔が見えています。

戻り道を下がります。
仁王門が見えてきました。 見事な紅葉の木がありました。


さて、此処まで編集してから、常寂光寺ッて何だ?
と、頂いたパンフレットを拡げました。
始めて知る当寺の沿革や堂塔の謂われです。

正直アレ、アレと思いました。
安土桃山フリークの気がある私にとって、興味深い人々の名前が並んでいたからです。

先ず此のお寺の開山ですが、日槇上人(木偏でなくノギ偏、にっしんしょうにん)、日蓮宗本圀寺十六世住持で、永禄4年(1561)から元和3年(1617)の方ですから、正しくゴールデンエイジのまっただ中、大座把に云って信長上洛から大阪落城の間に生きた方です。
そして帰依者としては、三好吉房、其の妻瑞龍院、さらには小早川秀秋の名がありました。
余り有名ではない名前ですが、瑞龍院と云うのは秀吉の実の姉、其の連れ合いが吉房ですが、勿論結婚したときはこんな立派な名前ではなく、秀吉同様の土民でした。
この間に産まれた子が、秀吉の政略で室町幕府の有力者三好康長の養子になり、更に後には実子のない秀吉の跡継ぎとして関白豊臣秀次となります。
二人目の実子、後の豊臣秀頼が生まれてから疎まれて、殺生関白の汚名をたてられ、切腹に追い込まれたのはご存じの通りです。
そして小早川秀秋と云えば、秀吉正妻禰禰の実の兄の子、此も一時は秀吉の養子でしたが、淀の方に実子が出来ると小早川へ養子に出されます。
因みに慶長の役では十六歳で日本軍総大将とされ、それなりに活躍したのですが、罷免召還されます。
此が石田三成の讒言であった、とも言われ、関ヶ原での”日本一の大裏切り”に繋がったとも云われます。
こうしてみると、秀吉の最も近しい親族でありながら、何か一枚ものが挟まったような境遇の人たちばかりです。
で、此のお上人の方ですが、京の大仏、方広寺千僧供養の際に秀吉の命令に逆らって”不受不施”の教義を盾に参加せず、本圀寺を出てこの地に隠棲、此のお寺を建てられたものでした。
この方は歌人としても有名で、当然木下長嘯子とも親交があったでしょう。
この細川幽斎に次ぐ当代の歌人と謳われた、小早川秀秋の長兄である元大名については、長くなりますので、こちらの伏見城血天井の項を見ていただくとして、常寂光寺に来られてからは、高瀬川や大堰川開削工事の豪商角倉一族とも連携されて、舟運を開くのに努めたりなさっています。
高みにある多宝塔は、この頃京の町衆の力で建てられたもので、重要文化財です。
又本堂は小早川秀秋の助力により伏見城の客殿を移した、と伝えられています。

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2006年12月13日 (水)

嵐山花灯路:06 嵯峨野辺り

京都嵐山花灯路なるイベントが開かれています。
此は春にある東山花灯路とペアになって運用しようと云うものらしく、関連する社寺のライトアップや夜間拝観と共に、沿道に種々の灯りを灯して楽しもうというものです。

ただ問題は東山花灯路は暖かくなり掛けの陽気に誘われてそぞろ歩き、と云った風情ですが、こちらは紅葉も終わってこれから厳寒に向かおうという時期の夜のことです。

そうでなくても東山一帯は市街地で、繁華街からも遠くないのに対して、嵯峨野嵐山というと、どうしても足が遠くなります。
其のせいか今までは日が落ちると、昼間の賑わいが嘘のように消えて、お店も皆戸を閉めてしまうと云った感じでした。

それで今回のこの企画については、些か懐疑的な目で見ていたのですが、ブログのノルマに追われて撮影に出かけました。
この間紅葉の季節に行ききれなかった嵯峨野の残り、二尊院から落柿舎、常寂光院と云った辺りです。

さりながら社寺は兎も角、お店なんかはあちこち歯抜けになって閉まっているのと違うか?
道に灯りを灯したとしても、隅っこの方の小道など、女性が歩けない雰囲気とちゃうか?
もしかしたら主催者さんだけの空回りかも、といわば醒めた気持ちで出かけたのですが、

みな外れです。
お店は大小問わず皆灯りを煌々と点け、道は観光客で一杯です。
人力車はフル営業で、何種類かのシャトルバスやタクシーまで走っています。
つまり地域が一体となっての総力戦です。

で、寒い中を歩いた結果は、今度は熱い気持ちでエールを送りたいと云うように、180度意見が変わりました。
ずっと此の勢いで定着したらいいですね。

12/18まで、17.00〜20.30
夜間拝観社寺:大覚寺、二尊院、落柿舎、常寂光寺、野宮神社、寶厳院、法輪寺
その他のスポット、野宮竹の道、渡月橋中の島一帯
因みに来年春の東山は3/10〜21だそうです。

清涼寺釈迦堂から歩き始め、この間ずっこかした滝口寺に寄り、二尊院に入って出る頃に暗くなり始めました。
そこまでの昼間の分は後ほどアップするとして、先ずは嵐山花灯路の嵯峨野側一巡り、明日は常寂光寺と、ナイター分から先に載せようと思います。


二尊院の紅葉の馬場と称する参道には、竹筒を切った蝋燭の灯りが並んでいました。

此は正面塀の石垣の一隅から出ている清水ですが、散り紅葉の溜まった水落ちに置かれた竹筒に灯りが入れられたところです。

未だ空に明るさは残っています。

此の時間帯、明るさは刻々と変わります。
塀を照らすスポットライトの明るさと天空光が丁度いい塩梅に調和して、且つ足元にある竹の灯りも目にはいる。
そう言う写真が良いのですが、私に云って頂いても殆ど無い物ねだりです、
この辺りでご勘弁下さい。

より暗くなりました。

その分灯りが目を引きます。

青竹を切った此の灯り、
それぞれに微妙に異なった切り口から灯りが漏れて、
中にはへりに細かいピンホールが穿たれたのもあり、
それが大小さまざま、それぞれの向き向きに並んで、
光の列を構成しています。

二尊院を出て落柿舎の方へ向かいます。

分かれ道の処には、このような大型の行灯が置かれて道案内をしています。

後ろに立っているのは、”小倉餡”と云うものは此処小倉山の麓が発祥の地である、と云う高札で、
下にちょろっと見えるのが一般の路傍用の電気行灯です。

遠くに小さく見える点々は、畑の向こうの道にある同じものの列。

落柿舎です。
ちゃんと柿の実が残っています。

この辺まで来ると随分冷えてきました。

それと此とは関係ないですが、落柿舎は内部をパス。
表からだけの撮影です。

落柿舎の門〜エントランス。

正面に蓑笠が懸けられて雰囲気を演出しています。
ライトアップが其の情緒を倍加します。

常寂光寺へ廻ります。
門前には大きな生け花、 要所にこうした出展が飾られるのが花灯路流のようです。

常寂光寺の仁王門。
入ると直ぐ急な階段ですが、其の両脇に灯りが並んでいて、それが此処から門越しに見えるところがライトアップの圧巻、見せ場の正念場でしょう。

門を潜りました。 未だ紅葉が残っています。
左側に降りてくる灯りの列は上の方、本堂の方からの帰り道です。

本堂の前からは京都の灯りが一望できます。
遠い山並みの左のピークは比叡山、右手のは大文字山。
一つ手前に見える岡は仁和寺の前にある双が岡(ナラビガオカ)です。

常寂光寺から大河内山荘の前を通って野宮の竹の道です。

常寂光寺など、ライトアップでも三脚禁止なので、入場券売場の外に溢れ返っているカメラマンも、中には居ません。
(おまえさんはなんなんや?)

でも此処は三脚の天下です。
係員が通行の邪魔にならないようにと、注意していますが、こうなってしまうと道路の両側縁には三脚だけが縦に並んでしまい、却って邪魔になりません。

因みに私は手持ち撮影です。

野宮神社まで来ました。

そうでなくても此処は人が多い処なのに、
此の催しとなっては、
もうラッシュアワー並みです。

因みに私が行ったのは、11日の月曜日です。





明日は常寂光寺のライトアップをアップ致します。


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2006年12月11日 (月)

鳴滝了徳寺:大根焚き つくる


了徳寺の門を潜って一番先に目に入った光景です。

本堂の右手、庫裡の方の前庭一杯に広がっているのが、太鼓焚きの調理場です。
大勢の人が手分けして働いています。

だいこ焚きを頂いた後そこへ行って、お忙しい中をほっつき歩いて撮り捲りましたが、皆さんニコニコして厭な顔一つされませんでした。
調子に乗って柄にもなく製造工程を観察してきましたので、ご覧のほどを。

一番奥にありました。
ほんとの原材料。

亀岡産の青首だそうで、
三千本ほど用意されます。





クローズアップした表情は下の通り。
千本釈迦堂の依りやや太めで、
且つサイズが揃っているようです。
切った厚みもやや厚め?


樽一杯の大根を笊一杯の大根へと小分けです。
笊一杯の大根は即ち鍋一杯の大根で、お鍋は四個。
全て薪で焚くおくどさんでした。

秘伝のレシピ?ではなくて昔の伝統のままの調理だそうです。
即ち水と塩と醤油のみ、但しお見受けしたところ分量の調合は相当慎重になさっていました。

もうもうたる蒸気です。
四つの鍋がローテーションを組んで焚き揚げです。

炊きあがった大根とおつゆは、庫裡の土間にある3個の小鍋に移されます。
油揚げは別の鍋で焚いて、これには砂糖を入れます。
そして此の小鍋に加えますが、暖める程度で煮込みはしない、と云うことでした。

こちらの方が釈迦堂よりも”うまみ”成分がやや強いように感じたのは、あぶらげの扱い方に差が在るのかも知れません。
また此の小鍋も、お茶を涌かすお釜も薪で焚く、という拘りようでした。

小鍋から一人前に盛りつけされて、それぞれの席へと運ばれます。
単純きわまる調理ですが、出来たもののあじわいは深く、ボリュームもあって口福です。


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2006年12月10日 (日)

鳴滝了徳寺:大根焚き たべる

なるたき りょうとくじ だいこだき、  又々だいこ焚きです。

縁は異なもの、とでも言うのか、9日お昼のテレビを見ていたら、またもや大根焚きのニュースです。
一日おいた前の7日のお昼も、全く同じパターンでした。
天気の具合も同じような曇乃至雨模様。
何か、おかしな具合になってきて、だいこ焚きのハシゴ、食べ比べという、誠に以ておかしな行動を実行してしまいました。

ところで今回行われるのは了徳寺さん。

千本釈迦堂は知っていましたが、了徳寺ってどこだ?

便利なもので、ちゃんとホームページがありました。
右京区の鳴滝、御室仁和寺から少し西へ行って、広沢の池、大覚寺への嵯峨野の道と、高尾槙尾栂尾へ向かう周山街道が分かれる福王寺交差点の少し向こうだ、と判りました。
行ったことはないですが、土地勘は多少あります。

騎虎の勢いというのでしょうか、「それ行け!」です。

此の催しは明日10日もあるので、間に合う方には行っていただくべく、この前に引き続きアップ割り込みです。


嵐電白梅町から乗りました。
降りるのは高雄口。
福王寺から周山街道が始まりますから、此の駅名、間違いではありませんが、ちょんまげ時代の感覚でしょう。
観光客の誤解を招くので、来年宇多野と改名するはずです。
名残の紅葉が見事ですが、この先の線路両脇は桜の季節ライトアップして、電車が徐行する花の名所です。
この辺りの地形は随分高低差があって、道も曲がりくねっていますが、簡単に判りました。
こうした幟が立って居て、要所には警備員が配置されています。
雨でなかったら凄い人出なのでしょう。

了徳寺は法輪山と号する真宗大谷派のお寺ですが、だいこ焚きの謂われはその昔、親鸞上人がこの地においでになり、村人が大根を焚いて差し上げたところ、大変喜ばれて、庭にあった薄の穂で十字の弥陀の名号を書かれて遺された。と云うことに始まっています。

お寺の塀の曲がり角の処から、大量の湯気が出ています。
っと此処に違い有りません。

前の道は狭くて車一台がやっとです。
でもお土産屋さんが出ています。

門を入った左手の寺務所で券を売っています。
だいこ焚きと、かやくご飯に大根葉のお浸し、漬け物を添えた”おとき”があります。

そのまま御本堂へ上がってお参りし、給仕の方に券を渡してだいこ焚きを貰います。
御本堂の席は少ないので、皆さん奥の客殿や庫裡の方にも広がります。

庫裡の方が賑やかです。
私はそこでの作業を眺めながら大根を頂きました。
但しお鍋の熱気で大汗を掻きました。

鳴滝了徳寺のだいこ焚きです。800円
千本釈迦堂に比べて少し小ぶりの器で、大根の目方的に云えば1000:800くらいなんでしょう。
材料的には全く同じで、お味の方はこちらの方がやや旨味が強い〜〜調理については次回バックヤードの撮影の方をご覧下さい。

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2006年12月 6日 (水)

嵯峨野の紅葉:夜、寶厳院

午後出かけて嵯峨野を一回りし、夕方・・と云っても今はもう真っ暗ですが・・5時半からの寶厳院獅子吼の庭のナイターに行く。
これだけのことが大事業になる体力です。
とにかく途中で栄養補給・・と云っても此処いらは高いですから、まともなお店でなくゲリラ的なやり方で・・1個100円のゆで卵!! の美味しかったこと。
いや、ほんとに美味しかったです。
高いとは思わないくらいに。
常寂光寺から野宮への道にあった専門店、一応お忘れ無く・・
でも100円は高い、でも旨かった。

(いつまでゆうとるんや)
(せんそうちゅうをおもいだしたんや)

獅子吼の庭
(いきなりわだいかえるな!)
獅子吼と云うのは釈迦が大衆を前に説法されている姿を例えていったものだそうです。
そして寶厳院のこの庭には大きな石が幾つも座っていて、あたかも獅子が天に向かって吠えるような姿です。
などと講釈していますが、実は私は昼間見たことがありません。
観光端境期対策として今年試みられた夏の催しが、嵯峨美大のセッティングの良さもあいまって結構良かったので、見事ご期待通りのリピーターというわけです。
因みに秋の紅葉の時期のナイターはすでに恒例で、此の季節昼夜を問わず大勢の客が訪れています。

ついでに今回行ってのご忠告。
5時半からですが、5時頃から並んで待ってます。
オープンと同時に大混雑ですから、先頭に並ぶか時間をはずすかが賢そうです。
それとアプローチ、と云うか帰り道ですが、野郎は天龍寺の参道から戻るのが最短。
女性は保津川〜渡月橋回りが人通りがあって良いでしょう。
もう一つ、三脚使用禁止です。
でも手ブレ補正つきデジカメならスナップ可。
(みなぶれてるやんか!)
(!!)


並んで待っている間に写しました。
寶厳院横にある羅漢さんの処の歌碑です。
風で枝が被写体ブレしていますが、手ブレは・・・
(あるやんか!!)

同じく塀の外からです。
空は真っ暗ですが、写真では青さが出ています。

入り口近くの”苦海”

向こう側の三尊仏です。

人は皆此の海を渡って
”彼岸”
に辿り着かねば成りません。

月が出ました。

夏に来たときも綺麗な月でしたが、
今日の梢は真っ赤です。

(300mm手持ちです)

11月29日では少し遅い目で、紅葉は盛りを過ぎたかと云うところですが、未だ青いのもあり、ライティングと相まって色とりどりに綺麗です。

奥にある庫裡か何かの縁側に、内側からの明かりが漏れています。

其の手前側に赤青混じりの枝先が差し掛かり、とてもいい感じでした。

《じつはこれ、撮影と後処理テクニック的には大変な苦労をしています。
内心鼻ピクもので、何方なりと真似をして挑戦してみて下さい。
因みに紅葉にあたっている照明は僅か、殆ど0です。》

こちらの場合はさっきと違い、
ほぼ100%照明設置した方のテクニック。
おんぶにだっこの写真です。

即ちこういう風に綺麗でした。

外へ出ました。

門とその向こうの明かりがとてもいい感じでした。

でも少し寒くなりました。
急いで嵐電の駅まで戻ります。

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2006年12月 5日 (火)

嵯峨野の紅葉:祇王寺

愛宕街道を西に進んで、道が北へ向かって折れるところを、真っ直ぐ西へ向かいます。
山手の突き当たりにあるのが、祇王寺です。
更に奥に滝口寺があるはずですが、今どうなっているのでしょうか。

祇王寺の場合、山懐に抱かれた境内は紅葉(と竹)の林にお堂が一つです。
御由緒というのは平家物語に伝わる白拍子の祇王と、そのライバルである仏御前にまつわる哀話につきています。

祇王は元は良家の出でしたが、故あって白拍子となりました。
平清盛の寵愛を得て、妹の祇女、母と共に幸せな日々を送っていたのが、ある時仏御前と云う白拍子が現れて清盛の寵が移ります。
祇王は身を引いて隠れ住んでいたところ、清盛から使いが来て「仏が退屈しているから来て舞いを見せよ」と申しつけられました。
仕方なく仰せに従った祇王ですが、舞い終わると都を去ってこの地に至り、母子三人尼となってしまいます。
ところが其の庵の戸を叩く者があるので出てみると、仏御前が立っている。
彼女も祇王の運命を見て世をはかなみ、今の栄華を捨てて此の庵に加わる事を志し、共に仏を祈って大往生をした。と云うことです。

権力者の身勝手の見本ですが、この間の清閑寺、小督局の哀話と云い、清盛という男は相当な狒狒爺いだったと云うことでしょう。

さて昔語りの深い綾とは裏腹に、写真の方はお寺の構成そのものに単純明快、紅葉と緑の色とりどりを並べるに留めます。











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2006年12月 4日 (月)

嵯峨野の紅葉:厭離庵

釈迦堂から西へ向かいます。
これは愛宕街道で、化野から鳥居本を経て最終的には愛宕山山頂にまで至る参道です。
そして此の道を西へ詰めると祇王寺です。
そこまで行く途中、左二尊院などへの道の手前の家と家との間、全くひっそりと厭離庵への小道、と云うか露路というか、が、北へ向かっています。
全くひっそりと。

それも其の筈、其の名の通り世を避けて、此の庵は通常は非公開、紅葉の頃のみ門戸が開かれるのです。

細い露地の奥、竹の垣根に挟まれて延べ石の道が続きます。

其の突き当たりにささやかな門。
今日は其の脇に机をおいて、ご案内です。

小倉山の麓と言える此の庵は歌人藤原定家の山荘蹟で、かの小倉百人一首が編纂されたところです。

江戸時代になって霊元法皇から厭離庵の寺号を賜り、天龍寺の末寺になりましたが、明治維新後は尼寺となり、定家の山荘時雨亭に因んだ茶室が造られました。


庭木戸の中は一面の苔、そして散り紅葉です。

織部灯籠が一棹、幾つかの景石、名水の井戸など、さりげなく配置されて、西側の竹林越しに僅かに差し込む日の陰が得も言えない陰影を醸し出していました。

ただせっかくの高雅な雰囲気をぶちこわすような観光客も居て往生です。
一年間非公開にして育てた此の苔の絨毯に踏み込んで、枝をたぐって記念撮影ですからどうにも・・・


此のお庭の根占には千両、万両の他に、十両と一両があると云うことですが、私には判別がつきません。

奥には本堂などがあり、天井には西村公朝作の飛天図があると云うことですが、
こちらの見所は定家ゆかりの時雨亭と云う名の茶室でしょう。

門を入った正面に立派な待合いがあって、
上の高みに藁葺きの四帖向切り枡床の席が建ち、
その辺りの取り合いは流石です。


床の前には大きな書院窓があり、
其の手前の全面が些かスケールアウとした文机で、桂離宮を模したのだ、とありましたが、さて?
天井は急な勾配なりの化粧天井で傘亭のよう、大きな広縁があってこれは苔寺の湘南亭を模した、とのことです。


一巡して元の門へ戻ります。

こちらはあくまでも密かに、静かに日を送り時が流れる空間なのでしょう。

紅葉の季節の一時のみ、娑婆の騒々しさが侵入して、それも又良し、と云ったところなのでしょうか。
なかなか得がたい雰囲気を味合わさせていただけました。

紅葉に引かれての嵯峨野廻りにも、良いことはあるものだ、と云うのが実感です。

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2006年12月 3日 (日)

嵯峨野の紅葉:寶篋院

出たとこ勝負で歩いています。
一応秋ですから紅葉です。
結局有名観光地に近寄って、且つ人出を逃げて、で、首尾一貫していません。
三尾へ行って神護寺を外し、鷹峰へ行って光悦寺を外す、と云った次第です。

今日(11/29)は天龍時寶厳院のナイターを見に行こう。

午後出れば嵯峨野〜清涼寺釈迦堂から寶篋院、厭離庵、祇王寺、二尊院、落柿舎、常寂光寺、野宮神社と廻って天龍寺〜〜
(あほか、ばかか、くるたんとちゃうか?)

まあ、確かに狂ってます。
結果は前半祇王寺迄でへたばって、嵐山によろめき着いたら、17時。
ならば、と17時30分まで門前に並んで、寶厳院獅子吼の庭に入りました。

(のせおわったらもみじはおしまいやな)
(まだあるかもしれまへんで)
(げんじつのもみじはおわってゆきげしきやろ)
(まさか・・・)

まずは清涼寺嵯峨釈迦堂の西南向かい側にある寶篋院(ホウキョウイン)から、



寶篋院の紅葉は見事でした。
基本的には紅葉の庭で、それが真っ盛り。
下植えの満天星(ドウダンツツジ)もぴったり同期して赤くなってます。

本堂の奥に同じ手法の新しい庭が出来ていて、これが落ち着いたら更に凄くなる事でしょう。

但しカメラマンに警告。
此処は三脚一脚持ち込み禁止、入り口で預かるのもNO!です。
嵯峨野一帯では概ねそう云う傾向で、ナイターの寶厳院でも三脚使用禁止でした。


紅葉が見事で足がかりも良く、此処は観光人力車のルートです。
此の力仕事、現代子向きではないように思いますが、親切な案内応対もあって盛況です。

さて、こちらのお寺の沿革ですが、相当に曲折しています。
平安時代白川天皇が建てられた善入寺に始まり、南北朝に夢想國師高弟の黙庵禅師が中興され、室町幕府二代将軍足利義詮の帰依を受けられて、彼の死後其の院号寶篋院に改められました。
応仁の乱後衰退し、幕末には廃寺となります。

下は本堂にあった四条畷の戦いの図です。

明治になって此のお寺は見直されます。
南北朝の終わり頃、南朝の忠臣楠木正成の子正行(マサツラ)は父の遺志を継いで足利軍と戦い、四条畷で討ち死にを遂げます。
黙庵禅師は其の首を我が寺に葬り、それを聞いた義詮は自分の死後其の傍らに葬るように願いました。

王政復古の後、其の故を以て此の寺は復活、再建されました。
右は小楠公首塚、左が義詮の墓とされ、石の門扉には菊水と二両引きのそれぞれの家紋が彫られています。

この辺のお話は今の人はあまり知らないことでしょうが、我々十代半ばまで皇国の小国民だった者にはジンと来るところです。
但し、敗戦の経験を経てかち取った今の日本國を否定して元に戻そうとする動きには賛成できません。
防衛省などもってのほかです。


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2006年11月27日 (月)

槙尾:西明寺




槙尾山西明寺は高尾山神護寺と、栂尾山高山寺の間、清滝川が湾曲して流れる西側の台地にあります。
高山寺に比べて”高山”的雰囲気は少なく、日当たりもいいせいか、今回(11/21)は紅葉真っ盛り、見頃でありました。
このくらい見事に赤いと、何にでもイチャモンを付けるsango氏も黙る、と云うわけです。

さて、西明寺ですが、こちらは天長年間(824〜34)神護寺の別院として弘法大師の甥智泉大徳が創建しました。
その後荒廃して、中興は鎌倉時代の事で、自性上人が後宇多法皇より平等心央院の寺号を賜り、神護寺から独立します。
それが戦国時代末兵火に依って焼失した後、慶長7年(1602)に再興、現在の本堂と表門は元禄13年(1700)徳川綱吉生母で京都の庶民出身である桂昌院の寄進のもの、と云うことです。
本尊釈迦如来と、脇陣の千手観音像は重要文化財。


石段を登ってきて、表門の脇、
お寺の人が落ち葉のお掃除をしています。

門を入って左手の鐘楼です。
背後の山々の北山杉の緑も見事なもの。

灯籠の苔の上に散った紅葉の落ち葉です、
よく見ると真っ赤一色ではないですね。

本堂前庭の紅葉は皆真っ盛りでした。
そしてカメラマンの砲列、
全員長玉ヘビー三脚使用。 勿論このお寺はOkです。

裏手へ回ります。
清滝川への崖の上、古い土塀が崩れています。

修繕されていないのは、
勿論懐具合のせいではなく、
此の素晴らしい風情が捨てがたいが故にでしょう。

本堂裏手の山側。

これでもか、
と云うくらいの真っ赤な紅葉が、
山の上から差し掛かっています。

其の照り返しで軒裏まで真っ赤でした。

汀に映る逆さ紅葉。

観光タクシーの運転手さんが、
お客を引っ張ってきて説明し、
皆さん縁のへりに一列に並んでシャッターです。

私は下の土間からちょろっとスナップ。

(冒頭の写真も同じですが、アングルが少し違うだけです)

この下に降りて行くと、茶室〜亭などがあるようでしたが、
足元が悪いので、これにて失礼いたします。

あるだけの弾を撃ちつくし、丁度昼になったので、神護寺は今回はパス。
三尾が二尾になってしまいました。


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2006年11月26日 (日)

三尾:清滝川


高山寺表参道を周山街道まで降りて、
これから清滝川沿いに、槙尾山西明寺に参ります。

この時点で身体の方は未だ神護寺まで持ちそうでしたが、
メディアの方が怪しくなりました。

大きな声じゃ言えないですが、
(ブログには書いてもええんか?)
丁度4ギガ消費しています。

それはさておき、
(ごまかしよる)

表題の三尾(さんび)ですが、これは高尾山神護寺、槙尾山西明寺、栂尾山高山寺と、三つ並んだお寺の山号=概ね地名、から此の一帯を総称して言う言葉です。
又単に纏めて全部を高尾と云うこともあり、此の方が一般的かもしれません。
三つのお寺の大本は神護寺ですし、一番京都の町に近いのですからから別に不都合はありません。

この三尾は清滝川の流れに沿ってならんでいます。
そして清滝川は高尾を過ぎてから街道を離れて暫く山間を南流し、保津川に合流して嵐山に至ります。
一方道路の方ですが、これは周山街道と云い、北桑田郡京北町、今は京都市右京区の周山から藁葺きの里美山を経て、ついには若狭湾の小浜に至る道なのです。
国道162号線ですが、海への道としては大原を通る鯖街道程有名ではありません。
鯖街道は安曇川源流部から谷間を一路下がっていく部分が大半なのに対して、こちらは丹波の山又山を越えて行くからでしょう。
でも古来都と海を繋ぐもう一つの幹線であったことには変わりなく、こちらの名品は北山杉、高級床柱から一般構造材まで、林業の大産地というのがポイントです。
それ故に大型トラックなどの往来も多く、都心部へ通う車もある渓谷沿いの道に、紅葉となれば他府県ナンバーが殺到する。
京都の人間が11月に高尾へ行くのを、アホ、バカ呼ばわりしたのは、このことからです。
ただ観光旅行であれば、高尾から嵐山までは嵐山高尾パークウエイを利用する手もあり、有料ですがそれなりの景色もありますから、一考される余地は充分にあります。

(で、きよたきがわのもみじは?)

それが21日現在は、まだでした。
とりあえず歩きながら目についた所の写真をご覧に入れましょう。

周山街道と清滝川が交差する所の茶店で一休み。

足休めでもありますが、朝が早かったせいでおなかが減ってきて、
空腹を葛餅で凌ぎます。


川岸の紅葉が一本赤くなっていますが、
清滝川縁は暫くこういう状態が続きます。

少し高尾の方へ行った所で、川沿いへ下がる道が別れます。

川岸に近づくと見事な紅葉が現れ始めます。

こんな狭い道も車でいっぱい、
僅かの駐車スペースも一杯です。

西明寺に近づきました。

川の近くに苔むした宝篋印塔がありました。

そして其の傍らには盛りの紅葉の木がありました。

清滝川の崖になるところです。

西明寺への入り口。

清滝川に架かる橋です。

紅葉も見事になってきましたが、
人出の方も此の通り。

とうとう行き当たりました。
文句無しの盛りの紅葉、真っ赤っかです。

このまま西明寺境内まで上がりました。
それはそれは見事な紅葉、
一杯のお客さん、殆ど肩が触れ合うばかりの満員ですが、誰も不平は言いません。
そのくらい見事な紅葉でしたが、それは又明日。
(ケチ!ブログのくいのばしかいな!)
(そやね、ほんまは)

突然で余り物的ですが、これは西明寺を出て神護寺に向かう川岸です。
清滝川の流れは清冽ですが、紅葉は又少し寂しくなりました。
神護寺はどうか、なのですが、行ってません。
体力もさりながら、弾を撃ち尽くしてしまい、この絵は高圧縮小サイズにして何枚かひねり出したものなのです。
(ちいそうても、そうかわらんな)
(7ギガなくなった!)

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2006年11月25日 (土)

栂尾:高山寺金堂



高山寺金堂は仁和寺から移築されたものだそうですが、此の深山の中心伽藍に相応しい規模とスタイルで、とても好ましく、回りに溶け込んでいました。

今日は先ず石水院を目指し、此の作戦は概ね上手く行って、人が増える前にあの環境を満喫させていただきましたが、ルートとしては逆回りで、本来は下の道から一直線に登ってきた参道の正面に此の本堂、金堂があるのです。

開山堂を過ぎた辺りから増え始めた人の数ですが、此の頁の辺りまで来ると、もう団体さんが現れます。
幸い未だ旗を持った添乗員さん先導のではありませんが、マイクロバス一台分くらいが固まってがやがや通り過ぎていくようになりました。
世界遺産の観光に人が集まるのは当然で、かつこのお山のキャパシテイは受け入れに十分ですが、一人でゆっくり三尾の風光を楽しむには、もう時間的に遅いです。
因みに8時台の終わりでしたでしょうか。

亭々たる樹林の彼方に金堂が見えてきました。
やや平らなレベルが在って、そこには大きな杉の木などが聳えています。
お寺が一番盛んな時は、ここら辺りに伽藍が並んであったのでしょう。

参道の縁には小さな石積みの塔が、
どんな方がどんな願いを込めて積まれたのでしょう。

金堂の手前脇に真っ赤な御社殿がありました。
寄ってみると春日大明神。

最近出来たもののようですが、
室町末期の戦乱で堂坊が焼失するまでは、藤原氏の氏寺として扱われてきたと云うことですから、
此の鎮守社はあって当然、
旧に復したと云うことでしょう。

巨大な杉木立の下の真っ赤なお社は、
なかなかの景観です。

金堂の正面です。
表参道を上がってくると、終点にこれが見えるわけです。

これは春日明神とは反対側。

金堂脇にあった小宝塔です。

謂われは知りませんが、
前にあった南天の実の赤と、
杉木立の下の暗みとの対比が余りにも良かったので・・

お堂の背面です。
なんてことはありませんが、控えめな補強金物と、端正なプロポーションに目が行きました。

押し寄せているのは行儀の悪い観光客と、不真面目なカメラマンばかりではありませんでした。

参拝を終えて正面参道を下ります。
幅は広く、それほど急勾配でもありませんが、自然石を積んだ階段は、気を付けないと足を取られます。
そして半ばまで降りて左手を見ると、石水院の白い塀が見えました。
此処で表と裏の参道を繋ぐ道があり、木々にも楓が混じり始め、そして此の横には日本最初の茶園があります。
鎌倉時代の始め、栄西禅師が宋からもたらされた茶の種を、明恵上人が栂尾に植えられて、此処から宇治に広まりました。


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2006年11月24日 (金)

栂尾:高山寺開山堂



石水院を出て山内を一巡です。
こちらの”山内”は文字通りの山の中、
塀に囲まれた中の山内とは桁が違います。
恥ずかしながら私は杖を用意しました。
このところ急速に脚力が衰えているからですが、杖、と云うのは〜(そら、ふつうは一脚いうもんやろ)
 (因みに山内は三脚一脚禁止です)
云うまでもなく私の持つのは伸縮式の杖(ほんとにそうです、ちゃんと握りが付いてます〜雲台も付いては居ますが)

この辺りの紅葉はまだまだです。
とは言っても全山真っ赤になるタイプではありませんから、こういった風情がベストなのでしょう。

石水院は本来もっと高いところにあったのですが、明治になって現在の位置に移されました。
従ってこれから目指す開山堂や明恵上人のお墓、それに金堂など、高山寺の主要部分は遙かに上の方、
坂道と石段を登ります。
(ただし険路ではありません)


開山堂です。 
明恵上人座像がお祀りされています。
建物は重要文化財。

少しずつ高度が上がります。
明恵上人御廟への道が分かれて登ります。

御廟は簡素で如何にも、と言った感じです。
上人は平氏の出ですが、源平の戦で孤児になり、文覚上人などを頼って神護寺に入り後東大寺や建仁寺にも学んで諸宗の奥義を会得し、東大寺學頭として華厳宗の講義をされたことも有った、と云うことで、後鳥羽上皇や摂関家の帰依を受けられましたが、其の本当のお姿は樹上座禅図や、
此の墓前に刻まれた
「山のはに われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに また友とせむ」
の御作のなかにあるのでしょう。


杉木立が続きます。
紅葉はあっても下生えで、未だ青いまま。
そしてその中に仏足石を守る小さな囲いが見えました。
仏足石はお釈迦様の足跡で、釈迦牟尼仏に備わる種々の属性が刻まれています。
(すんません、写真では其の模様がよく見えません)

大分山深くなりました。

日は昇ってきましたが、深山幽谷的雰囲気です。

やがて此のお寺の本堂、金堂です。

いま、明治以前に石水院があったという、石段と囲いの前を通り過ぎました。

盛期には大門、金堂、三重塔、阿弥陀堂、羅漢堂、鐘楼、経蔵、鎮守社などが軒を連ねていたようですが、今は当時の経蔵の後身である石水院のみが残ります。

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2006年11月23日 (木)

栂尾:高山寺石水院


11月21日高尾方面に行きました。
(なんやて!?)
そうです、私が常々愚行の代名詞にしている行為です。
(このきせつに、周山街道へいくぅ〜!?、アホか、バカか、きちがいか)
そうです! それをやりました。

きっかけはtfjeさんのブログです。
朝6時の始発に乗って・・・云々
「そうか!其の手があったか!」
金はなくとも時間はある身の上、早速真似をしたのです。
(tfjeさんごめんなさい、おかげでいいめにあえました)

西日本JRバス、周山行き初発は京都駅6時50分でした。
10分前に行ったら10人ほど並んでいて、発車時には満席、
驚いたことには途中からも続々乗ってきて、遂に満員、人いきれで窓が曇って外が見えないほどになりました。

その中で練った作戦は、こうです。
大方の人は手前の高尾で降りて、槙尾、栂尾と奥へ辿るだろう。
ここに少なくともバス一台分の人が居る、されば逆を行って栂尾まで乗り、戻ってくるとしょう。
高山寺石水院の静謐を、一人紅葉の元で眺められる!!のではあるまいか!!!

此の作戦は概ね成功でした。
今日から5日間に渡って、西明寺の紅葉(見事でした、真っ盛りです)迄お届けします。
〔実はへたばってしまい、神護寺はギブアップしています〕
三尾のお話、各お寺についてのお話は、長くなりますので又適宜に・・・

栂尾では未だ日は昇って居ませんでした。
冒頭の写真はそこのバスストップの光景です。

高山寺の表参道は少し戻らねばなりませんが、此のパーキングから裏道(ほんまに深山のうらみちでッせ)が通じていて、写真の石水院の塀の横迄登れます。

栂尾山高山寺は、宝亀5年(774)創建ですが、鎌倉時代に明恵上人が出て中興します。
上人は諸宗の奥義を究められた碩学ですが、これらにとらわれず、清純無私の行者として生きられました。
後鳥羽院より”日出先照高山之寺”(日いでて先ず照らす高山の寺)の勅額を賜り高山寺と称し、又建礼門院に受戒されたことなどがありましたが、当寺に伝わる国宝明恵上人座禅像が示すように、鳥や栗鼠に囲まれて、樹上に座って一人座禅を組まれるお姿が、上人と此のお寺の神髄を伝えているように思えます。
今でも結構山深く、其の昔は塵外の修行場だった事でしょう。

石水院は上人の学問所でお住まい、簡潔で機能的、且つ繊細優美な鎌倉時代の傑作で、国宝です。

そう言ったこともあって、此のお寺はイタリアアッシジの聖フランチェスコ教会と兄弟教会になっています。
聖フランチェスコは小鳥に説法されるお姿で有名ですが、そう言った共通点が此の異種宗教間の兄弟教会という、類例の無い関係を生んでいます。

高山寺石水院、庫裡の方から入って最初に目にする光景です。
紅葉は程良く色づいて、人影はまばら。
此のお寺のベストを満喫できました。

実に簡素で美しい、かつ如何にも”夏を旨とした”日本建築らしい建物です。
(でも、ここは高山、ふゆはさむいやろなぁ)
(しゅぎょうじゃ!)

こちらは建物の真ん中にあるお部屋です。
多分建物全体の中心辺りに座って撮っています。
南を向いて広い縁があり、蔀戸が開いて色づき始めた紅葉の風景です。

縁からの光景です。 前の写真の人たちが見ている視点です。
紅葉はいま4〜5分くらいでしょうか、でも真っ赤っかでない方がこちらの雰囲気には似合います。
もうすぐ日が出ます。

一番始めの板間にいた善財童子さんです。
どの写真を見ても何時も此処においでですが、不勉強で謂われを知りません。
(ほんまは華厳経にでてくる理想のしゅぎょうしゃやて)
でもこれ又雰囲気にぴったりです。
最後にこれ、主室の明恵上人樹上座禅の図の脇にいたワンコです。

志賀直哉がペットにしたいと云ったとか、如何にも此のお寺らしい、でも伝運慶作、他にも鹿や何かがあるようです。

そうそう、一番肝心で有名なものを忘れておりました。

蛙が相撲をとったりしている例の”鳥獣戯画”の巻物(国宝)は、こちらの所蔵です。
今は東京か京都の博物館が預かっています。

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2006年10月19日 (木)

嵐峡:水上の嵯峨狂言後編


地下世界を捜索する綱と保昌は、いつか離ればなれになりました。
そして、綱と土蜘蛛が遭遇します。

早速蜘蛛の糸の攻撃です。

立ち回り。 蜘蛛もなかなかやります。
杖を翳して綱に立ち向かいます。

蜘蛛の糸の波状攻撃。
狂言堂での場合、
屋根があり、且つ照明設備はありません。

そう言った環境の中で完成された演技ですが、白日晴天の元で演じられても、
迫力は増してボロは出ません。

さすがは国定重要文化財です。

此の蜘蛛の糸の輝きようなど、
こうした環境でなければ味わえない見物です。

何度も戦いますが決着が付かず、蜘蛛は逃れ去り綱が追跡します。
(この時狂言堂では奈落へ飛び込む演技がありますが、それをここでやると、保津川へボチャンと、)

替わって保昌が現れ、その背後から蜘蛛が忍び寄り、襲いかかります。

保昌と蜘蛛の一騎打ち、此も決着が付きません。

そこへ綱が馳せ参じて、一対二になり、二人掛かりで遂に蜘蛛を倒します。

保昌が蜘蛛の首をあげ、凱歌を上げて二人は引き上げます。

メデタシ、メデタシ

清涼寺嵯峨狂言:土蜘蛛 ホームページの分です (06/4/16)

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2006年10月18日 (水)

嵐峡:水上の嵯峨狂言前編

10月15日、嵯峨野宮(ノノミヤ)神社で斎宮群行なる催しがありました。
野ノ宮は伊勢神宮にお仕えする皇女、斎宮が赴任前に潔斎されたところなので、その行列を再現しようと云うものです。
私は行きませんでしたが、恐らくあちこちのブログで取り上げておいででしょう。
本番は失礼して私が向かったのは、その前日祭でした。
嵐山水辺のコンサートと銘打って、14時から17時まで邦楽やクラシックの演奏会、そして釈迦堂清涼寺の嵯峨大念仏狂言が行われるからです。

これは国指定の無形重要民俗文化財。
他に壬生、神泉苑、閻魔堂とあり、それぞれ特徴はありますが、私は何故か嵯峨狂言に曳かれます。
などと通ぶったようなことを云いますが、概ね今年になってから、一通り見ただけの、どシロウト、西と東の区別が付きかかった程度ですが、でも結構面白くて病み付きです。
私のブログでご覧になっても退屈されるだけかも知れません。是非一度実見されることをお奨めします。
(未確認情報:10/22日曜日=時代祭の日1.30,2.30,3.30清涼寺狂言堂にて公演〜未確認です)

さて、事前情報によると演目は花盗人、”泥棒を捕らえて縄を綯う”狂言でしたが、行ってみると”土蜘蛛”に変更されておりました。
此は私が狂言に引っ張り込まれた演目で、多くの方も同じと思いますが、土蜘蛛が、派手にパァーツと糸を投げる奴です。
今年たまたま釈迦堂で見たのも此ですが、何度でも構いません。

さて嵐山についてやっているところを探しました。
何しろ仮設舞台です。
その時は未だそれが水上にあるとは知らず、観光人力車の兄チャンに尋ねました。
親切に協力してくれて、壁に貼った案内掲示を発見。
嵐亭前の保津川下り下船場のあたりに行きました。

船を二艘繋いで係留した舞台は嵐峡を背にし、燦々と照る太陽の下、素晴らしい環境です。
一番に乗り込んで真ん前真ん中に陣取ります。
土蜘蛛です。

いきなりです。

狂言堂の場合、登場人物以外は舞台の裏に隠れています。
ことに土蜘蛛のように陰性で敵役、魔性のものはおどろおどろしく現れて突然正体を現すものですが、ここでは隠れる楽屋はありません。
こういう時我が国の演劇では見えていないように装うのが慣習でしょうが、我がブログではいきなり正体暴露。
と言うのは私自身、ここまで明瞭に土蜘蛛の面、身なりを認識できたのは始めてなので・・・

同じく身も蓋もない編集です。 
舞台脇の袖に集まったところを、のっけに登場人物のご紹介。
右が主君源ノ頼光(ミナモトノライコウ)、大江山や戻り橋、その他鬼退治の元締め?で、鉢巻きをしているのは病気の表現。
向こうの厳ついおっさんは渡邊綱(ワタナベノツナ)。 頼光家来のNO1で、鬼退治のスペシャリスト。 背中が平井保昌(ヒライホウショウ)、同じく頼光家来のイケメン(と、昔の人は設定したらしき役どころ、祇園祭保昌山の主人公) こっち向きの少年は太刀持ちの小姓です。

幕が開きました〜何もありませんが、こういう時観衆は想像力で補います。
頼光は加減が悪くふせって居ます。
実は土蜘蛛の呪いです。
綱が見舞いに来て様子を窺います。
(本当はこの前に酒宴の場があるのですが今回は省略)

綱が下がったあと、土蜘蛛登場、

気がついて起きあがった頼光に、蜘蛛の糸が・・

騒ぎを聞きつけて、綱と保昌が駆けつけます。
蜘蛛は逃げ去り、頼光は身動きがとれません。

保昌の介抱を受けながら、綱に命令する頼光。

二人は襷掛けで股立ちをとり、松明を翳して地下世界へと向かいます。

以下後編

肝心なことを言い忘れました。
念仏狂言というのは、パントマイム、無言劇です。
(除、閻魔堂狂言)
全てはアクションで語られますので、映像をそのおつもりでご覧下さい。

ホームページの分です (06/4/16)
清涼寺嵯峨狂言:土蜘蛛



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2006年9月 6日 (水)

天龍寺宝厳院

始めて天龍寺塔頭宝厳院に参りました。
獅子吼の庭という紅葉の名園で知られていますが、今までご縁がありませんでした。
秋のシーズンには昼間はもとより夜間のライトアップもされて、大いに賑わうと言うことですが、今回は些か違っていて、8月末から9月始めに掛けての観光オフシーズン対策として嵯峨美(京都嵯峨芸術大学)観光デザイン科の学生が主体となり、宝厳院と地元の協力の下に実施に移された企画だと言うことです。
テーマは青紅葉と揺らぎ。
舞台用のスモーク装置と照明を駆使し、流れや水盤の水を使って、光と煙、水面反射の揺らぎを獅子吼の庭の巨岩、奇岩と一面の青紅葉に加えて、夏の一夕の涼を演出しようとしています。
この頃はやりのライトアップですが、奇を衒っただけの、はっきり言って空間をめちゃくちゃにする演出が多いなかで、これは元々の庭の良さを阻害せず、比較的穏やかながらエフェクトも良く嫌らしさが無く、言行一致していてなかなか良くやっていると評価すべきでしょう。

とりあえず写真にしましたので、ご覧下さい。


宝厳院の参道です。
今夜のルートではなく、写真の背中側にある門から庭へ入ります。


獅子吼の庭には色々な場面があります。
入ったところにある苦海、玉石敷きの空池ですが、仏教の苦海つまり人の人生を象徴したもので、その先には雲上三尊仏、海中には船石や獣石など、人や獣までが仏の彼岸に渡るすべが用意された造形があります。
これはその場所でのライトアップとスモークの演出です。

苦海に漂う、煙、雲。
彼岸に渡る妨げでしょうか。


此の庭は室町時代二度中国へ渡られた、夢想國師の法孫に当たる策彦禅師の作庭と言われ、多くの巨岩と二百本を越す紅葉、流れなどによって構成された嵐山を借景とする回遊式庭園です。


もう薄が伸び始めていました。
明かりと煙、
上手い具合に浮き上がらせてくれています。

庭の中には色々な名前の巨岩があります。
これは響岩の向こう側に仕掛けられた光と煙の演出。


こちらは獅子岩。
此の庭の主石です。
獅子吼とは釈迦が説法をされている情景を言い、此の岩は大きさから言ってこの地に根付いたものと思いますが、それにしては変わった表面をしています。
今夜はその表面にせせらぎの揺らぎが投影されているのですが、動画でない此の写真が表現できたかどうか。

庭の一番奥にある、
窓石の滝、と言う辺りのライトアップです。
スモークが効果的で、庭の設計者のセッティングを強調していますす。


要所に配置された、これは実用的な目的のフットライトでしょう。

背後に点々とあるのが、水盤に明かりを当ててそれを揺らがせているテーマライトですが、不注意な人は見逃すかも知れません。
そのほのかな揺らぎは好ましいものですが、
私の写真術では到底よう表現し得ません。



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2006年9月 5日 (火)

嵯峨:天龍寺

あまりにも有名なお寺です。
いわゆる五山の筆頭で、臨済宗天竜寺派総本山。
嵐山渡月橋の北の方に広大な寺地を占めて居られるのはご承知の通りで、嵐電嵐山終点の真ん前ですから、京都も西の方、嵐山嵯峨野方面に行かれた方は、大抵おいでになっていることでしょう。
実は塔頭の宝厳院でライトアップの催しがあって、それを見せて貰いに夕方出かけました。
時間調整に寄るという、はなはだ贅沢なことをしたのが、此の一編です。

此のお寺は室町幕府を開いた足利尊氏が、後醍醐天皇の冥福を祈って創建したものです。
此の場所には御嵯峨上皇の仙頭御所があり、後醍醐の帝は此処で幼少期を過ごされていたのです。
そして天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒し、建武の中興を支えた最大勢力である源氏の頭領尊氏が、やがて背いて自らの幕府をうち立て、後醍醐帝を吉野の山奥深く追いやって憤死させたのですから、これくらいのことは当然といえるのでしょう。

処でこちらの堂宇ですが、当初は中国・元との貿易船天竜寺船のもたらす財源によって隆盛を極めました。
ところがその後は何度も大火に見舞われて、現在は明治以降のものなのです。
従って巨大な方丈と、最近加山又造画伯が天井の龍を描かれた法堂があるくらいで、他の禅寺のように七堂伽藍を誇るという処までは行きません。
そのかわり開山夢想國師作庭と伝わる曹源池を中心とする大庭園があって、訪れる者を迎えてくれているのです。


大きな敷地で建物が少ないので駐車場はたっぷりあります。
でも禅寺の構えとしての勅使門、放生池はちゃんと法堂の軸線上に並んでいました。
向こうに見える峰は愛宕山です。


真ん中は空いていますが両側には塔頭が並んでいます。
そしてどれもきちんとしていて、大きく立派です。


たっぷり歩いた先に大きな庫裡が見えてきました。
庭園の拝観は左手から入り、(500円)方丈や書院の内部を拝観するには此の庫裡から入って更に100円払います。


方丈の室内越しに庭園の背景になる緑が見えます。
いつもの事ながら息をのむ美しさです。


方丈の西側、曹源池の庭園です。
愛宕、小倉、嵐山を借景とする大きくゆったりとした池泉回遊式庭園で、多分最大のスケールだと思います。
真正面に滝口があり、竜門の滝と称します。
(ただ私見ですが、相当に荒廃していて、当初の面影はないのでは無かろうか、と疑っています)
写真はクリックして大きく下さい。


大方丈です。
まことに雄大、四方開け放たれて周辺も広いので、快快としています。


少し北寄りから斜めに曹源池を見ています。
向こうの山は嵐山です。


池の背後及び右手には実に広大な園地が広がっていて、野宮神社の竹林に連なっています。
野宮神社から大河内山荘〜小倉山の方へ行く道の途中からも此の庭園に入ることが出来ますから、表の車道へ廻らずに天竜寺に入る、と言う事が可能です。


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本日のブログ本体とは別に、こんな写真が撮れました。
只の写真ですが、変な解説?を加えます。

庫裡の前の坂を、
小さな子が上っています。
沈む日を受けて。

お父さんが見守っていますが、
きっと西方浄土の仏様も見守って下さっていることでしょう。



何の花でしょうか。
ついこの間まで咲き誇っていたのでしょう。
枯れ果てた今でも、
でも、
未だ葉は青々として生きています。
きっと仏様が見守っていて下さるのでしょう。


2006年8月31日 (木)

愛宕古道街道灯しの灯り達

愛宕古道街道灯し(アタゴフルミチカイドウトモシ)の宵、鳥居本の鮎茶屋さんの周辺と、化野の念仏寺千灯供養を巡りましたが、最後に”灯し”そのもののピックアップをご覧に入れましょう。

形態的には三種類で、一つ目は紡錘形のもの。
此は嵯峨美術短期大学の学生の作のようで、要は竹の骨組みを最もプリミティブに組み立てた形態です。
大小さまざまあって、大きいものは要所の広場を占めていました。
二つ目で一番多いのは、普通の四角箱形で、上に粗めの笊状の蓋があるもの。
一番目のは抽象柄でしたが、此はもっぱら絵が楽しみで、説明してくれた方の言葉をそのまま伝えますと、
「子供っぽいのは子供、大人っぽいのは大人」の作品。
何れも地域の小中学生からお年寄りまでの作品です。
三つ目は変形大型のもので、店先などを飾っていて、それぞれに趣向が凝らされていて楽しめます。
面白いのは各行灯には日付が入っていることでした。
これはどうやら1月1日から12月31日まで振ってあるらしく、無いのもありますから灯りの総数は365個以上と言うことでしょう。
では順不同で目に付いたものをどうぞ。













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2006年8月30日 (水)

愛宕古道街道灯し:鳥居本の鮎茶屋

1時間に1本の京都バスで、鳥居本まで行きました。
嵐山からは満員になりました。
降りたところ(文字通りバス道から崖を降りたところ)は鳥居のもと。
つまり愛宕神社の大鳥居のもとで、二軒の鮎茶屋さんの所です。
丁度6時で、街道灯しの灯りが入り始めました。

愛宕古道街道灯し、化野念仏寺千灯供養の宵の奥嵯峨野鳥居本、灯灯し頃の鮎茶屋さんの情景です。
(あんなぁ、いまのせりふでいくと、てんかのけっさくがかってにできるシチュエーションやけどな)
(うるさい、だまれ、みんとけ)


愛宕神社の大鳥居。
少し灯りが見え始めました。 
待っていた人も動きだし、お店も大勢のお客のよう。

街道灯しの灯籠ですが、
流石に此処にある分の絵柄は違いますな。

平野屋さんのお座敷。
外には床几、よく見ると柱に”あまざけ”と書いてあります。
これなら私でも入れるかも。

高級車が一台横付けです。中の方は忙しそう。

調理場から煙が吹き出しています。
きっと鮎が焼かれているのでしょう。
(鰻だったら外でお弁当が食べられるのですが・・)


こちらは鳥居より下のつたやさん。

苔むした藁屋根が見事です。
こちらもスタンバイ中。

でも千灯供養の夜、
此の場所で一献とは、
随分しゃれたお席になりますね。
(このくいしんぼうめ、
いじましいでぇ)



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2006年8月28日 (月)

愛宕古道街道灯し:化野千灯供養

行かない行かないと言っていて、何でか来てしまいました。
これぞ、御仏のお導き?なんて殊勝なものではなく、生臭の結晶のような結果です。

今年から予約制ではない、と言うことで入れたのですが、お寺の人の会話を盗み聞きすると、去年よりも入りがよい、とのことでした。
そして例のごとくカメラマンが蝟集していて、”囲い”の中(西院の河原?)が撮影禁止なのは相変わらず。

(この件に関してはお寺の処置を支持します。
あの環境でまともに撮るには三脚かストロボが必須ですから、あの大勢にそんなこと許可したら、そりゃもうメチャメチャです)

外側から三脚立ててやっている人はいましたが、それほど異質では無し、そしてストロボは殆ど光りませんでした。
野球場のスタンドでピカピカやるど素人さんは同じくらい居るはずですが、不思議なことでした。
やはりこの千灯供養の雰囲気がなせる業でしょうか。
そう言えば遠方から来たらしき方が、
「やっと思いが叶った」とか
「本当に感激した」とか仰っているのを幾つか耳にしましたし、本当に真面目に手を合わせている方々も無数でした。




上:
賽の河原に入り切れていない仏達です。





中:
同じく外側に居られるお地蔵様。





下:
水子供養堂です。


賽の河原の囲みには、

お墓の方から廻って向かいます。


以下、囲いの中。

千灯供養の情景です。


このお寺は1100年の昔、
弘法大師が開創されて、化野の野に野ざらしの遺骸を埋葬されたことに始まり、
その後法然上人の念仏道場となって、
現在は華西山東漸院念仏寺と称します。

明治の中頃、
化野一帯に無数に在る無縁仏をこのお寺に集め、
囲いを作って釈迦の説法を聞く人々に見たてて配置しました。

その様を、嬰児がひとつ二つと積み上げる石の塔を、
鬼が突き崩す賽の河原になぞらえて、
西院(サイ)の河原と称します。

その後も無縁仏は集まって、
西院の河原に入りきれないものを含め、
現在八千体を越えていると言うことです。

千灯供養ですが、
この石垣に囲まれた無縁仏の列に、
蝋燭を灯して供養するもので、
地蔵盆の宵に行われます。

その光と闇の織りなす情景は、
浄土もかくやというものであって、
多くの人々の感動を呼び、毎年多数の参拝があるのです。



撮影について:
当然の事ながら禁止区域の外側、囲いの外からの撮影です。
そして三脚はなし、ストロボも無し。
α100 50mmF1.4解放 iso800または1600
自動露光(1/125〜1/15 結果を見て適宜補正)
フオトショップにてレタッチ

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当ブログの関連ページ
都の三つの野
船岡山:蓮台野
六道珍皇寺:精霊迎え
えんま堂引接寺:精霊迎え

2006年8月27日 (日)

化野夏宵:愛宕古道街道灯し

8月23,24日は化野念仏寺千灯供養です。
超メジャーな観光スポットとなったこのお寺の、この一年一回の催しは、少なくとも京都に住む者が寄りつくところではありません。
てなこと言って、鳥辺野と蓮台野はアップし、化野は行かないと宣言していました。
それがノコノコ出かけました。
一方では別件で悲鳴を上げているのに・・・

きっかけは表題の”愛宕古道街道灯し(アタゴフルミチカイドウトモシ)”と言う催しの存在を知ったことです。
折しも夕方からは涼しくなって、夏バテのクレイジィな身が人間らしき感覚を取り戻せます。
息抜きに出かけたのですが、その後がいけません。
化野念仏寺の方はどうせ予約制なので、全く行く気がなかったのが、なんと今年からは予約無し。
何でも一晩千人限定で半年以上前から予約だったのが、此処数年は予約自体が1000人未満になったからだそうです。

結局そこへも行き、鳥居本の鮎茶屋さんもあり、四夜連続の大長編になりました。

先ずは愛宕古道街道灯し種々相です。

#1 釈迦堂清涼寺門前
この催しの趣意は聞かずに行きました。
でも行われていることは、よく判ります。

写真の釈迦堂から始まって、鳥居本を通る愛宕詣での古道ですが、
化野念仏寺を挟んで整備されたこの道沿いに並ぶ、
これぞ奥嵯峨野、と言う感じの家々、店々が、
紙張り蝋燭の行灯を並べて、千灯会に集まる人々をもてなす。

そう言った夏の宵のイベントです。

#2 鳥居本側の民家
正反対側になりますが、鳥居本側の民家です。

概ねこのような紡錘形の行灯と、
箱形の行灯。

それぞれに描かれた絵や模様が楽しめます。

#3 ファミリー

鳥居本から念仏寺の方へ向かう道すがら、
未だ幾らか空の灯りがある中で、街道の灯りが目立ち始めました。
楽しそうな家族連れですが、浴衣掛けの女性あり、野暮ったい野郎どもの団体客あり、様々の賑わいです。

4 お地蔵さん

沿道のお地蔵さんです。
幾つもあるのですが、それぞれが当夜に合わせたよそ行きの装いでした。

#5 シンボルライト?
鳥居本よりに、このような巨大な灯りがありました。

愛宕古道街道灯しと大書されて、
此がこの催しのメーンの灯りなのでしょう。

因みに上空を横切る黒い陰は、
嵐山高尾パークウエイの入り口で、高架橋がこの古道を横切っています。

#6 農家
この辺りの家は”町屋”ではないでしょう。

基本的には農家です。

でも首都近郊農家らしく、
恐らくその経済力、文化水準の高さは大したものであったのでしょう。

その実力がハッキリと形に見える家々です。

#7 商家
お商売屋さんですが、
今日は遅くまで開けて居られるようです。

奥さんが近所の方と四方山話中。

話題は概ね今宵の賑わいと、
知る辺の方々の消息についてのようでした。

#8 田園

街道を少し逸れると田園が広がります。
その一郭に思いっきり豪勢に灯りが並んでおりました。


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2006年5月 1日 (月)

六斉念仏踊り:稲荷大社宵宮奉納

4月29日の夜、油小路八条下がるの稲荷大社御旅所で行われた中堂寺六斉会の六斉念仏踊りを見に出かけました。
これは節分追難式に六波羅蜜寺で拝見したもので、土蜘蛛がパァーッと糸を投げるのが見たくて行ったのです。
次回はこちらと聞いていたのですが、その間清涼寺の嵯峨狂言で又土蜘蛛を見たりして、それそれと出かけましました。
定刻7時半近くに着いて、夜店が並んだ参道を抜けたところ、丁度蔵に入った御神輿の前で何やら神事が終わったところでしたが、辺りはシンとして何もなく、見つけた舞台の周りにも誰も居ません。
やがて会の方が到着して準備が始まりましたが、そんなことでカブリ付きの一等席に陣取って、六斉念仏の一部始終を堪能させていただけました。
幾つものプログラムが並んでいましたが、簡単に言えば各種の太鼓を各種の打ち方、曲打ちなどを含めてされる中に、狂言の橋弁慶と祇園囃子棒振り、更に獅子の曲芸とそれを襲う土蜘蛛、と言ったものが加わった盛りだくさんのアトラクションで、重要無形民俗文化財に指定された郷土芸能なのです。
その由来などは後記するとして、映像をどうぞ。
(デジカメの感度アップを過信してノーストロボで撮りましたが、やはりもう一つでした)


此の豆太鼓を各自が持って打ち、
曲を奏でるのが基本のようです。







大人から子供まで、
昔の中堂寺村界隈(現在下京区中堂寺櫛笥町あたり)の人たちが大勢加わって、
技芸を伝承して演じています。




狂言・橋弁慶。

京の五条の橋のうえ、
牛若丸と弁慶の闘いの始まりです。

弁慶が牛若丸の被衣を剥ぎ取ろうとしています。

越後獅子など、色々な曲目があるようです



獅子の碁盤乗り倒立。

その他にもいろんな形の逆立ち芸を見せますが、
そこへ金襴の被衣を被った土蜘蛛が忍び寄ってきて、
糸を投げて襲いかかって、獅子を苦しめます。

六斉念仏は千年の昔、
空也上人が鐘を叩いて念仏を唱えて町を回られたのが始まりで、
仏教の六斉日の厄を逃れるために、
鉦太鼓を叩き念仏を唱えたものです。

やがて都の近郊では六斉念仏講中が多く生まれ、
更にそれらが互いに技を競うようになって、
芸能的要素が発達していったものが、
現在に伝わったのでした。

2006年4月22日 (土)

嵯峨狂言:餓鬼相撲

四月十四日の日曜日、嵯峨清涼寺釈迦堂で、恒例の嵯峨狂言が行われました。
などと書き出して、実は私は初めてです。
一時半、二時半、三時半開演の三本立てで、二時半のに間に合ったのですが、私が好きな〜と言うのはこれしか知らないので〜”土蜘蛛”でした。
実によく解るパントマイムに大いに堪能して、最終公演にも居座りました。
実は二時半開演の二時過ぎ着では、前の広場に置かれた折り畳みベンチの座席はもう満員で、立ち見でしたが、写真を撮るには好都合でした。

次の分は”餓鬼相撲”と掲示され、買ったパンフレットで梗概を読んで粗筋の理解をし、ベンチに座ってさて開演となって、鬼どもが出てきて閻魔大王がハッタとこちらを睨んだ途端に雨が落ちてきて、終演まで降り続け、私は主催者席のテントの端に避難して執念深く撮り続けましたが、当然うまくいきませんでした。枚数だけは膨大なのですが、どうもちゃんと筋道立てて並べることが出来ないので、餓鬼相撲の方はこちらで断片的に掲載し、土蜘蛛はゆっくり整理させていただいて母屋の方に載せるつもりでいます。


餓鬼相撲の粗筋  (パンフレットより転載)

閻魔と鬼三匹は、餓鬼三人を連れた地蔵尊と出会い、角力をとることを承知させる。
餓鬼と鬼が一対一で角力をとるが餓鬼が負ける。
二度目は地蔵尊が拝んで出すと餓鬼が勝つ。
次に、閻魔が餓鬼三人と一度に角力をとり閻魔が勝つ。
これを見た地蔵さんは閻魔と角力をとり閻魔を倒す。
全員で「明年じゃ、豊年じゃ」と声高々唱え踊りながら入る。


お地蔵さんは墨染めの衣に頭巾の姿で、閻魔の申し入れを断ります。

餓鬼は何時も震えています。

当然鬼の方が抜群に強いのです。


閻魔大王は威勢がいいのですが、
しょっちゅうへまをやって頭を抱えています。
地蔵さんのお祈りで手下を負かされた閻魔は、今度は自分が出て一度に三人の餓鬼を相手にして勝ちます。
閻魔と鬼が威張るので、お地蔵さんは衣を脱いで出てきます。
蔵さんと閻魔大王の取り組みには、一番鬼と餓鬼が行司です

地蔵さんが勝って、みな輪になって踊りながら退場。

舞台はこんな具合の立派な建物で、前の広場から見るのです。


この前に演じられた”土蜘蛛”を主屋の山紫水明抄にアップしましたのでご覧下さい

清涼寺嵯峨狂言:土蜘蛛

2006年2月25日 (土)

退蔵院・ひょうたんなまず

退蔵院の二日目は、テーマが二つ。
一つはまじめ且つ明らかな造形です。
もう一つも真面目〜〜真面目と言えばこれほど真面目なものは無いのでしょうが、私レベルは手にあいませんから、ひたすら不真面目アチャラカなテーマです。

前者は元信の庭、後者は瓢鮎。

退蔵院の唐門は少し変わった形です。

唐破風がなだらかな曲線でなく、
カクカクした形状です。
でも結構様になっていて悪くはありません。
袴腰の玄関という表示がありましたから、
この形状は袴腰〜袴を履いた後ろから見た腰の辺り〜
のイメージでしょうか。

中へ入るとこれも重文の方丈です。
縁先にこのような掲示がありました。
日が当たっているのは国宝瓢鮎図の解説で、
陰にあるのはそのひょうたんなまずの複製です。
まずこの辺りから解らなくなります。

瓢箪ナマズ、というのは一応捉えどころの無いもの、あるいは事態の表現と思いますが、
その謂われはこの図、、瓢箪でナマズを捕る、という、禅の公案から来ているようなのです。

国宝瓢鮎図は室町将軍足利義持の頃、
如拙が描いた山水画
〜瓢箪で鯰を捕らえようとしている〜に、三十一人の高僧が賛をしたものですが、
絵が投げかける設問に対する三十一の答えが書かれている、と言うわけです。
よくわからない方は、写真を大きくして白い看板の説明を読んでください。
(二段に拡大しますが、読みにくいって? 其れも公案の一つと思し召せ)

瓢鮎図=ヒョウアユズとは違うの?
その辺りもややこしいのですが、鮎という字は中国では鯰を意味するらしいのです。
ところでこの如拙の流れには雪舟が出て、それは狩野元信などに繋がります。

そしてこの方丈を取り囲む庭ですが、すべて狩野元信によると言われます。
方丈前庭は正しく禅寺の方丈前らしく簡潔端正を旨としたもの、此処の場合の主眼は西側の檀那の間から見る山水です。
作庭は専門家か高僧によるものが多いですが、二次元世界の作家である画家によるものは珍しいものです。
それ故に、此処のお庭は他といささか違います。
やり口がいささか違うのと、レベルの高さの違いです。
構成はいかにも画家らしい緻密で隅々まで配慮の行き届いたもので、石と灌木の組み方に優れたものがあるように思いました。

そしてレベルの違いですが、これは作者の能力の違いそのものでしょう。
狩野元信は室町幕府の絵所で、彼が手塩にかけ絶大な信頼を置き、将軍家の前にまで引っぱり出してその天才を称えた孫の名は州信(くにのぶ)すなわち狩野永徳。
その祖父として恥ずかしくない大画家であったのです。

2006年2月24日 (金)

退蔵院・外回り

退蔵院は通年公開寺院です。
と言うことは、いつでも行ける・・・で、今まで行っていない所の一つとなってました。
こちらは応永11年(1404)創建の山内屈指の古刹で、室町末の大画家狩野元信〜永徳のおじいさんです〜作のお庭、それと、ひょうたんなまず〜〜国宝瓢鮎図があることで有名です。
通年公開寺院らしく、山内はよく整備されて受け入れ態勢は万全、
それで居て、冬の旅公開寺院のように係員がいっぱい居て団体客が居て、と言うことで無しに、静かに禅刹の雰囲気が楽しめました。

写真もたくさんになりますので、逆順序にメインを後にします。
このあたり、ひょうたんなまず的??

#1 入ってすぐ、庫裡の前です。

少しばかり演出が過ぎますが、
笠が掛かり、草鞋が吊されています。

いずれも市中托鉢の必需品です。

勿論今の季節でも素足に草鞋履き、
墨染めの衣で早朝から〜と言うことです。


#2 まんさくの花

方丈の方へ行かずに、
新しいお庭の方へと向かいます。

茶亭の脇には、まんさくの花が、
はや満開でした。


#3 水琴窟

周遊路の傍らに蹲いがありました。
水琴窟になっていて、
上から水が呼び込まれ、いつも静かな音をたてています。

#4 余香苑

方丈や元信の庭の外側に広い大きな新しい庭がありました。
滝口から幅の広い流れが斜面を下り、池に注ぎます。
緩い築山は一面の躑躅(?)ですが新芽(?)の赤に覆われていました。
周りにはお休み所などもあり、抹茶が頂けます。

#5 帰り道の眺め

一回り回って、ひょうたんなまずに頭を抱え込み、
(抱え込むような頭有るんかいな)
元信の庭に堪能して、
(正面からは見せて貰らえんかったけど・・)
出てきた最後に見た景色です。

どうってことはありませんが、
三門が真横から見えて、退蔵院の門とその赤の対比が面白く見えました。


 

2006年2月23日 (木)

大通院

昨日まで連載分は実はこの17日に行きました。
冬の旅の残り大通院と通年公開の退蔵院、桂春院も、と思っていたのが延び延びになって、実行は21日にずれ込みました。
冬の旅の常套手段で、NHK大河ドラマ絡みと言うことから言えば、メインは大通院、山内一豊さんです。

(ちゃうで、しゅじんこうはちよさんやで)
(こんなとこまで、しりにしくな!)

失礼しました。
山内一豊さんは何となくキャラクターに親しみがもてる方ですが、今回私の主要目的は、スタンプラリーの三個目を集めること。
三つ集めたらあちこちで接待が受けられる〜〜炙り餅食べに行こうっと、思っていて、この前二個集めた台紙を持って出るのを忘れました。

(かんけいないはなしするな!)

失礼しました。
で、大通院ですが、此処は秀吉の家臣であった、一柳直末が創建したのですが、彼は小田原攻めの時に討ち死にしてしまいます。
そんなことから山内の香華寺となったのですが、明治維新の廃仏毀釈を諸に受けて何もかも無くなってしまいました。
ちなみにこちらの開山も隣華院と同じく、南化玄興禅師です。

#1 表から見たところ

いわゆる騎乗門で、武家の檀那が馬に乗ったまま潜る高さです。
正面奥に一豊夫妻の御霊屋があるのですが、写真ではよく見えません。
京の冬の旅の公開寺院はおおむねこんな風な表構えでやっています。

#2 一豊、千代夫妻の御霊屋です

すっきりとした意匠です。
実はお二人は長浜城が地震で倒壊した際に、一人だけ出来た姫を失っていて、二代藩主以下の菩提寺は高知に移り、此処にはこの方達だけと言うことです。

#3 御霊屋内部

墓標が僧侶が使う卵塔形式であることが変わっています。
もう一つは、夫妻が並んで同じ大きさであること、これは当時の常識では異例なことです。

#4 御霊屋周辺

千代さんと一豊は一回り歳が違ったそうですが、一豊が高知で死んだ後、千代さんは京で晩年を過ごしたのだそうです。
高台寺のねねさんなんかと行き来したのではないでしょうか。
その時に従ってきた家臣十三人のお墓が御霊屋の外に並んでいました。
そして山内家の定紋がついた立派な石の扉の奥津城があり、なかは何もなく、且つ何方のものか解らないのだそうです。

#5 竹林

廃仏毀釈の嵐のせいで、大通院は堂塔をすべて失い、花園一と言われた名庭園も失いました。
現在の本堂は六畳位の玄関と十畳ほどの仏間があるだけ、と言う状態です。

#6 かっての名庭の図

現在もいろいろ花木などを植えては居られますが、図に示されているすばらしい池泉回遊式庭園など、どこにあったのか想像もつきません。
ただ例えば同じ被害にあった大徳寺総見院など、多数あった永徳、等伯の障壁画などは消え失せましたが、此処の名石は平安神宮に運ばれて、現在の神苑を構成する要素になっているそうです。
勿論どれがどうである、と言うようなことまでは解りませんが。


今日はなんか湿っぽい話ばかりです。
でも、一豊さんが入った土佐からは300年の後、坂本龍馬という英傑が出て、この国の進路を正しく定めてくれました。
そのこととどこかで繋がっているのだろう、と信じて終わることに致します。

2006年2月22日 (水)

隣華院

隣華院は秀吉の家臣、脇坂安治が慶長4年(1599)創建した塔頭です。
この慶長4年という年は、前年8月に秀吉が卒して朝鮮から撤兵、この年3月には前田利家が死んで重石が外れ、次の年の9月が関が原の戦いと言う、大激動の時期でした。
彼は秀吉が信長亡き後、柴田勝家と湖北賤ヶ岳で戦った時に活躍した若者たち、いわゆる賤ヶ岳七本槍の一人ですから、太閤子飼いのバリバリです。
淡路洲本の領主として小田原攻めのころから水軍担当となりますが、文禄の役では李舜臣提督の前に大敗。
そして関が原の戦いでは西軍として出陣し、小早川秀秋の寝返りとともに東軍に参じました。
このとき一緒に寝返った四将のうち、二人は家康に改易されていますから、よほど信用があったのでしょう。
後伊予大洲の主となり、譜代並みの待遇を受けました。

#1 門構え、東向きに入ります。



#2 方丈の西妻



#3 唐門



この隣華院ですが、見所はなによりもまず方丈室中の間の長谷川等伯筆、金泥水墨画。
他の諸室は此処もすべてが狩野永岳でした。

撮影禁止。
と、京都市観光協会発行の切符の裏には刷ってありました。
春光院の係員は口にしましたが、ここではそれはありません。
だからと言って、誰もシャッターは切りません。
私を含めて秩序は保たれています。

ところで、このお寺は西側が道に面しています。
それで方丈の部屋の順序がよくあるのと反対で、一番いい部屋、檀那の間に相当する部屋が一番東にありました。
そしてその部屋には探幽張りの松の絵があり、北の部屋には付け書院があって、おまけに飾りの武者隠しまでありました。
永岳にこの意匠を発注した人〜そのころの殿様?〜は二条城などの大広間のミニアチュアが欲しかったのかもしれません。
ただこのお寺には、そのほかにも幾つか他と変わった所がありました。
それもよいほうに。

気がついたのは非常に縁が広いことです。
四周とも広く、かつ外周に建具が入っています。
結果は各室の採光が穏やかで、障壁画も鮮やかなままであると言うことです。
そしてもうひとつ工夫がありました。
方丈前の庭。
禅寺の方丈庭は、それぞれに何か設問を投げかけているような所があって面白いものですが、此処のは割合明快でモダンです。
縁近くに白砂の帯があって、うねって三つの苔島を抱いています。
この砂がうまい具合に陽光を反射して、室中を柔らかく照らしているのです。

説明がややこしいですから、たまたま出てきた写真を載せておきました。
これは室中真正面ですが、これと同じ造形が左右の室の前にもあります。
但し白い石は無し。
それにしてもこの真ん中の平石。
何の公案なのでしょう。


そしてなすべきことをなさねばなりません。
長谷川等伯との対決です。
等伯については随分とお喋りをさせて貰いました。
ビジュアルにお伝えする資料がないからです。
今回は少し違いました。
このお堂のたたづまいは、柔らかい光でよく作品を包んでいます。
今まで見たなかでも、一番すっと入ってきます。
たぶん多くの人にも伝わり得るでしょう
室中の前の縁に独り座っていた、私の膝の間でカメラが何か言いました。
多分等伯さんが問いかけたのです。

隣華院室中の間、長谷川等伯、既に久蔵を失ったあとの晩年の作は、おおむねこのようです。




2月19日、母屋の山紫水明抄に、
智積院〜祥雲禅寺をアップいたしました。

これは当Blogの太閤シリーズ別巻のような位置づけですが、今回妙心寺隣華院を訪れて意外なことが解りました。

当院の開山南化玄興和尚ですが、妙心寺全体の住持を4回も務められた程のお方です。
祥雲禅寺が完成した時、この方がその住持に迎えられておりました。
こちらに等伯の作品があるのは当然と言うことです。
隣華院には祥雲禅寺が失われた時もたらされた、豊臣鶴松の木像があると言うことで、そのほかにも妙心寺は祥雲禅寺の遺物をお守りになっているようです。

2006年2月21日 (火)

春光院

冬の旅特別公開寺院のうち、今日は春光院のご紹介です。
このお寺は秀吉の家来の堀尾茂助、徳川の代まで残って松江の殿様となった堀尾吉晴が、子の冥福を祈るために創建したもので、当初は峻厳院と称しました。
しかし堀尾家は三代で無嗣断絶。
徳川初期には蒲生家など多くの名家が断絶していますが、此処の三代目も優れた文化人でしたから惜しいことです。
そこで忠晴の婿である石川氏が、春光院と名を改めて繋ぎます。
現在この塔頭の見所は、吉晴が作ったと言う西の常葉の庭、幕末に伊勢神宮の景色を模したと言う方丈前のさざれ石の庭、室内では京狩野の名手永岳の障壁画、および南蛮寺の鐘。
と言ったところですが、ご多分に漏れず、撮影禁止です。

そこで悔し紛れも入れて申しますと、お庭は見るべきものなし。
南蛮寺の鐘はその伝来に大いに興味をそそられますが、それだけのこと。
狩野永岳は京狩野の八代目か九代目、180年ばかり前の人で正当な狩野派の画風を継いでいますが、安土桃山の巨人たちには及ぶべくもなし。
ただ此処で京狩野の名誉の為に言っておきますが、京狩野とは、狩野山楽とその養子山雪を祖とし、本家が江戸に移ったあとも京に残り、江戸の狩野が世襲制封建制の中で硬直埋没していく中で、正しく狩野派の画風を繋ぎかつそのほかの諸派の研究も怠らずにきた優れた画人集団です。
狩野山楽は浅井の家臣の子で、秀吉の小姓をしていた時、画才を認められて永徳の養子になったと言う、これまた大天才。
永徳の画風を最もよく伝えていると言われ、妙心寺には天球院にその作品が残ります。
永岳はその流れの上手で,比較的近年の作ですからどれも痛んでおらず、金碧画の雰囲気を味あわせてもらうには格好の作家です。

と、散々毒づいておいて写真ですが、

1 春光院の門正面

正面に玄関、左方丈、右庫裏。
門外から見るたたづまいは中々なもの。

#2 庫裏

ずい分と賑やかな雰囲気の庫裏で、これは余りいただけません。

#3 唐門

これより以降、撮影禁止。

撮影禁止の趣意は何か、別に議論する気はありません。
でも一矢は報いてまいりました。

#4 作品A


#5 作品B



いずれもルール内、ただし雰囲気は伝えています。
よくも、悪くも。



明日は隣華院に参ります。
此処ではずぼらは許されません、等伯と対決です。

2006年2月20日 (月)

妙心寺伽藍

伽藍、という言葉には独特の響きがあります。
日本のものだけでなく、ゴチックの大伽藍、などというのも含めて。
いずれにしても、整然として堂々として大きい、と言うのが第一印象でしょう。

禅宗のお寺の定型も、其の定義?に叶うものですが、色々な事情で完全な形であるものは少ないのです。
南から北へ勅使門、放生池、三門、仏殿、法堂、そして方丈と並ぶのが、禅宗寺院の伽藍配置ですが、ひとつも欠けずに然も周囲に十分な空間を保って並んでいるのが、妙心寺です。

#1 三門、仏殿、法堂

明智風呂の前から北を見ています。
禅宗の山門=三門のみが朱塗り重層で、あとは白生地の平屋、というのが定型ですが、ひとつだけ赤いのは多少奇異な感じもなくはありません。

#2 三門

放生池、を渡ったところから見た三門の真正面ですが、この視点は今日では現実的ではありません。
と言うのは、此処に限らず大抵のお寺は、安全上の見地から放生池の周りを囲っておられ、従って池の上を橋を渡って真っ直ぐ進む、と言うことは無いからです。
この写真も金網に背中をくっつけて撮りました。

#3 三門と仏殿の間

右が三門で、左が仏殿。正面右手は経蔵。
間の空間がたっぷりしています。
ここには室町中期に妙心寺から出た四派をあらわす松4本がありますが、ほかのお寺の場合、これだけ空いていると、間の何かが欠けているか、若しくはもっと鼻突き合わせているか、と言うことになるでしょう。

#4 仏殿、法堂

堂堂たる仏殿と法堂です。
法堂の天井の龍、探幽法眼守信筆と大署名のある天井画はお見せしましたが、この絵は探幽の中でも傑作でしょう。
探幽は画家としての最高位法眼に昇りましたが、ひとつにはこれは”徳川の平和”の世に居たおかげでしょう。

#5 仏殿ご本尊

仏殿正面の開口部に張ってある金網越しにご本尊のお姿を拝写。
ご本尊は釈迦如来、仏弟子の阿難と迦葉(アナン、カショウ)が脇侍に立っておられます。

#6 唐門〜大方丈

一直線の伽藍配置の両側に道がありますが、その東側の正面一段上に大方丈があり、そこへ入る正門である唐門があります。
妙心寺には大方丈の東に小方丈もあり、このあたりもずいぶんと充実した感じです。

ちなみに大方丈、法堂、浴室は重要文化財です。



 明日からは冬の旅特別公開の塔頭を回ります。

2006年2月19日 (日)

明智風呂

妙心寺には明智風呂,と云われるものが在ります。
禅を修行する僧にとって、浴室は快楽の為ではなく、修行の一環として大切なものとされ,入浴の日取り時間、入っている間の作法など、厳格に定められているのだそうです。
それ故どこの禅宗寺院にも、必ず立派な浴室棟が備わっています。

妙心寺のものが明智風呂と称されるのは、本能寺の変から3年後、ある禅師が光秀の供養の為に建てられた、と云うことからで、他のお寺と違い普段から内部を見せて頂ける機会は多いようでした。
禅寺のお風呂、そしてこのネーミング、私もかねてから拝見したいと思っていたのですが、今回ようやく実現したものです。
そして、そして、そして、写真撮影okなのでした。

#1 外観


妻入りの平屋建て、入り口は唐破風。というのが、禅寺の浴室棟の一般的スタイルのようです。

#2 扉が開いた


真正面は位牌棚で、浴室の守り尊者跋陀婆羅像があります。

#3 脱衣室


入った右奥は畳敷きの間。 脱衣室で休息室です。
この畳の上に四角い布を敷き、そこへ衣類を脱いで置く。
これが風呂敷の始まりです。

#4 蒸し風呂です

建物中央に風呂〜蒸し風呂があります。
後方で湯を沸かし、それを床下に流して隙間から上がる湯気を利用する湿式蒸し風呂です。

一番上は採光窓、真ん中は調節口、出入りは一番下から。

看板は利用形態によって、違う表示に変わるそうです。


#5 風呂の内部


床板のスリット以外、三方の壁天井は密閉されています。
後ろの小窓は焚き口のほうから様子を見る為のものでしょう。

#6 洗い場です

線香が一本燃え尽きる時間のあいだ中に居た後、
前の洗い場に出て湯と水を所定の回数被って汗を流します。

写真の真ん中に見えている棒は溝の蓋で、左右から流れた洗い湯がここから下へ落ちて行きます。


#7 湯沸かし場です


湯沸し用の大釜が三つばかりと流しが並んでいて、沸かした湯は蒸し風呂の背面から床下へと送られます。


珍しいものを見せていただいた後は、禅宗寺院中随一といわれる伽藍の列に沿って元へ戻ります。

2006年2月18日 (土)

京の冬の旅・妙心寺

恒例京の冬の旅が始まっています・・・1/14〜3/19ですから、随分ずっこけた話で済みません。
本来なら全公開寺院のリストアップをして,皆様の便宜を図るべきですが,些か気が抜けた感じですので、今回は見送らせて頂くことに致します。

(実はこれを丁寧にすると、物凄く視聴率が上がるのです・/一つには検索にやたら掛かるようになるのですが)

然り乍ら、未公開寺院の扉が開く分,見過ごしには出来ない面が在ります。
だいたいは大河ドラマ便乗ですが,今回私が走らざるを得ないのは、妙心寺塔頭隣華院、
関ヶ原の前の年、秀吉が死んで物情騒然とした頃の長谷川等伯晩年の作が公開されるのです。

と,云うことで妙心寺に出かけました。
せっかくですから、ノルマ!!も稼いでまいりました。

(あんなぁ、そないしてれべるがおちていくんやでぇ)

(!!)


妙心寺へは白梅町から嵐電に乗ります。
(白梅町=京都風座標で云うと,西大路今出川、嵐電=京福電鉄)
そこへ行くのに北大路バスターミナルから,洛バス101または102に乗ります。
これは観光用急行路線で,早くて便利ですが,ターミナルへ向かって歩いて行く途中,向こうから「オー。オー」が来ました。
禅寺の修行僧の托鉢です。
禅寺へ行くのに、これはこれは、見てみると大徳寺の方達で,四、五人つれの最後の方はどうやら西洋の人。
慌ててカメラを引っ張りだして、撮らしてもらったのが此の写真です.

前置きが長くなりましたが,次の写真は白梅町の駅。
単線、ワンマン,無人駅,嵐山へは帷子ノ辻(また京都的地名,カタビラノツジです)で四条大宮から来る本線に乗り換えですが、そこまで乗り切り200円。因に等持院,龍安寺,仁和寺は此の沿線です。

妙心寺へは北門から入ります。
入ったところにある案内板がこれ。
主要伽藍は南の方です.(クリックしてください)

最初に大方丈の受付へと行きました。
時間を区切って団体を組み、法堂の龍と明智風呂が見せてもらえるのです。
大方丈は対象外ですが,庭先から見ることが出来ました。
葺き換えたばかりの屋根がまぶしいです。


法堂(ハットウ)は仏殿と並んでもっとも重要な伽藍の一つです。
そして禅宗寺院の多くは此の天井に描かれた龍の絵を持っています。
それらは何れも錚々たる大家の作で,相国寺は狩野光信(永徳の長男)ですが、こちらはその一代後、甥に当たる探幽です。
探幽は永徳と並ぶ大作家、ただ永徳の作品は安土城、聚楽第,伏見城と、ことごとく失われたのに対して、江戸初期徳川に仕えた探幽の方が一般にはよく知られています。
法堂内は例に依って撮影禁止ですが,幸いどこからか,此の写真が出てきました.

此のほか法堂内には日本最古の国宝梵鐘があり、その黄鐘調(オウジキチョウ)の音(ただし録音)が聞かせてもらえます。
それから浴室の見学に向かいましたが,これはまたあした。

最後の写真は帰り道,北門に向かったところですが,真正面に美しい衣笠山の姿が見えました。
此の両脇に今回の冬の旅特別公開塔頭寺院,大通院(山内一豊)春光院(堀尾茂助)隣華院(脇坂安治)が並んでいます。
()内はそれぞれの創設者の名前ですが,いずれも今年NHKでおなじみの皆さんです。

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